北朝鮮に拉致された生島孝子さんを奪還する学生の会 -16ページ目
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特定失踪者・生島孝子さんとは

生島孝子さんのプロフィール


北朝鮮に拉致された生島孝子さんを奪還する学生の会


     生島 孝子 (当時31歳)
   生年月日  :昭和16年(1941)6月14日
   失踪年月日 :昭和47年(1972)11月1日
   当時の身分 :区役所支所勤務
   当時の居住地:東京都渋谷区
   失踪場所  :自宅アパートを出たあと不明



生島孝子さんは渋谷区笹塚のアパートに妹と二人で住んでいた。勤務先の港区役所麻布支署(電話交換手)に「家事整理」という理由で欠勤届を出していた。朝方、妹が出かける時、「夕方に電話があったら出かける」と話していたという。午後3時、近所のクリーニング屋さんに洋服を出していたことは確認されている。午後7時、妹が帰宅するとすでに孝子さんの姿はどこにもなかった。室内は荒らされた様子はなく、財布や定期もアクセサリー類も残っていた。電話があって誰かと会ったのだろうか。一緒に住んでいた妹には、それが誰なのか全く見当がつかない。


孝子さんが失踪した翌日、アパートに不審な電話がかかってきた。姉が受話器を取ると相手は無言のまま。妹ではないかと思って、大きな声で「たーちゃん、違う?」と何度も言ったが全然返事をしない。かといって電話が切れるわけでもない。その後、突然、「そんなことしたって今さら仕方ないだろう」という男の怒鳴り声が聞こえ、電話は切れた。


この不審な電話は特定失踪者の多くの場合に共通する。
当時、母、生島うらさんは白内障の手術で入院していた。あと数日で退院するという時だった。母思いの生島孝子さんがこのような時期に自ら失踪することは考えられない。孝子さんが病室にうらさんを見舞った時、手術後ということで目を包帯でまかれたいたため顔を見ることは出来なかった。声だけを聞いた。その声が最期の声となってしまった。

翌日、警察に届けたが、「年齢は31?じゃぁ、駆け落ちかなんかじゃないの」という具合でまともには取り合ってくれなかった。届けだけは受け付けてくれた。しかし、2年目、警視庁の家出人特別強化捜査の対象に選ばれ(失踪の状況が不審だったからに他ならない)、あらためて詳しい捜査が行われた。捜査は警視庁捜査一課が行った。何らかの事件性が疑われていたのかもしれない。しかし、そこでも手掛かりは何も見つからなかった。


北朝鮮に拉致された生島孝子さんを奪還する学生の会


母、うらさんは孝子さんの生存を信じていた。温泉地など賑やかな場所に行っては孝子さんを探していた。占いで、北にいると言われれば北海道、東北地方にまで出かけていった。後、大韓航空機爆破事件で金賢姫の教育係として日本人女性が北朝鮮にいることが判明した時、「これ、孝子じゃないか」とうらさんは言った。田口八重子さんとわかってからも、もしかしてもっと拉致された日本人がいるんじゃないか、とうらさんは思っていたという。

2002年 9月17日、リストになかった曽我ひとみさんの名前が出てきたことで、10月上旬には警察に相談にいく。また救う会にも届け出る。2004年には、脱北した呉吉男氏から、生島孝子さんの目撃証言が出る。1985年から1年間、平壌の高級アパートで暮らして彼はそこで会話をした日本人女性が「生島孝子さんに似ていた」と証言したのである。1月には調査会の荒木代表が、そして6月には姉、生島馨子さんが訪韓して証言を聞いた。

2004年6月 韓国ソウル。韓国人経済学者呉吉男(オ・ギルナム)博士。1985年から1年間、平壌の高級アパートで暮らしていました。彼はそこで会話をした日本人女性が「生島孝子さんに似ていた」と姉の馨子さんに伝えました。


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