母の体の不調が出始めたのは、私が中学生の頃。
それからずっと通院したり、検査入院したりしていた。
40代後半からもう体調が悪かったけど、普通に生活していたし、私たちにはしんどいとか言ったことはなかったような気がする。
高校生の頃、家から一時間かかる大きな病院で検査入院をしたとき、電車とバスを乗り継いで一人でお見舞いに行ったことは覚えている。
お菓子作りにはまっていた私は、マドレーヌを焼いて行った。
うまく焼けなかったからよく覚えている。
だけど、そんなマドレーヌを母が喜んで食べてくれて嬉しかった。
遠い病院だから、お見舞いに毎日行けなかったから、母は寂しかっただろうな。
たぶん、狭心症の疑いでの検査入院。
それから、ずっと体がしんどかったりしたんだと思う。
通院が続き、近くの大きな病院に通い始めたころは、【僧帽弁閉鎖不全症】という診断がついた。
私が学生の頃、寮に入っていて、毎週末帰る時は寮まで迎えに来てくれた。
寮で食べるお菓子を買いに、母とスーパーに行くのが楽しみだった。
そのお菓子を持ってまた寮に帰る時、帰りたくなくて寂しかった。
帰宅したら、普通に生活していた母。
その頃の体調はどうだったんだろう。
我慢強かったから、多少しんどくても何も言わなかったんじゃないだろうか。
私が19歳の時、進学して寮に入るために家を出た。
その数日前に姉が嫁いで家を出た。
一週間の内に娘が二人ともいなくなってしまったから、家の中は両親と伯父の3人。
近所のおばちゃんたちが、「お父さんとお母さんは二人ともいなくなって寂しくて泣いてばかりいるよ。」と教えてくれた。
初めて両親の元を離れて暮らすことで、不安がいっぱいで私も寂しかったけど、娘二人が家からいなくなったから両親はもっと寂しかったと思う。
卒業後、関西に就職して、年に数回帰省した時はいつも空港まで迎えに来てくれた。
帰省した時は、何の手伝いもせず、友達と遊びに行ったりしていた・・・。
両親は、そんな私に文句も言わなかった。
何にも手伝わなくてごめんね、お母さん。
私が、就職して3年目に手術をしたとき、両親は付き添ってくれた。
遠く離れた場所で、手術をすることが心細かった。父は手術後数日居てくれて、落ち着いたら先に一人で帰ったけど、母はしばらく付き添ってくれた。
毎日私のマンションからバスに乗って、バス停から長い坂道を登って病院に通ってくれた。
それから5年後に母は心臓の手術をしたから、この時、坂道を歩くことは体に負担をかけてしまったのではないかと母に申し訳ない気持ちになる。
でも、母はしんどいとか一言も言わず、私が食べたいものを買ってきてくれたり、一日中付き添ってくれた。
両親は、自分のことはおいても他の人に尽くすような人だった。
そんな両親の良さをわかったのは、だいぶ経ってから・・・。
24歳の頃の私は、ちゃんと両親に感謝の言葉を伝えたのだろうか。
やってもらって当たり前って思っていなかっただろうか。
今になって思うことは、自分も両親も元気なころは、親孝行した記憶がないこと。
両親が年を取って、親孝行しようと思ってもどこにも出かけられなくなったりして、親孝行したくてもできなくなった。
若くて元気なころに、いっぱいいろんなところに連れて行ったり、
一緒に楽しい思い出を作ったり、写真を撮ったりしておけばよかった。
孝行したい時に親はなし
この言葉を知っていたけど、聞いてもピンとこなかった。
両親が亡くなって、もっとやっておけばよかったと思うことばかり・・・。
だから、両親が許してくれるなら、私が死んで生まれ変わったら、両親の子供として生まれ変わりたい。
ちゃんと親孝行したい。また一緒に過ごしたい。
そう毎日仏壇にお参りするときにお願いしている。