新渡戸稲造は、『東西相觸れて』の中で、ベルクソンとの接点ともなった国際連盟の「知的協力委員会」について、次のように記している。

「…これは各國の大學者或は美術家或は小中學程度の教育家或は藝術家の利益と便益とを圖つて、彼等の思想、作品、硏究等を國際的に交換し、此等の表現に世界的奬勵を與ふることを目的とする」(201頁)

その新渡戸は、「長い年月外國に生活した間には、不自由と思ふことも不愉快に感じたこともあるが、又之を補ふて餘ある事柄も數多ある」(263頁)と記している。

そんな中、「…屢ベルグソン氏に逢ふたのは我輩の在外中の役得であつた」(265頁)と述べている。ベルクソンの風貌について、新渡戸は、次のように記している。


「氏は軀幹小さく、頭は禿げ、鼻下に髭を貯へ、他は綺麗に剃つてゐる。衣服も極めて普通の装であり、一見して立派な紳士たることは分るが、往々世にある如き學者ぶるとか哲學者じみてゐるといふやうな嫌は更にない。普通一般の人のままで、ネクタイのピンさへも何時も几帳面に挿している。併し注意深き眼を以てすれば彼の偉人なることが直に分る」(268頁)と。

さらに、新渡戸は次のようなエピソードを紹介している。それは新渡戸がベルクソンを含めて四五十人の客を招いたときのことだった。日本通の米国夫人が新渡戸に、ベルクソンのことを次のように語ったのだ。

「御覧なさい、こんな先生が巴里にゐるとは、何と不似合なことではありませんか。寧ろ鎌倉か京都あたりのお寺にゐる方が適(ふさは)しいではありませんか。私は御國の僧侶たちに數多の知己がありますが、ベルグソン先生も全くその仲間ですよ。あの洋服を脱がして法衣を着せて御覽なさい、さうすれば人種の區別も何もなくなり、たゞ脱俗した人間以上の聖者が現はれるのです」(268頁)。


『東西相觸れて』序文より

※ベルクソン(Bergson)について、引用文では、原文のまま「ベルグソン」とした)

※ベルクソンは、ドイツ占領下のパリで、1941年1月3日に風邪をこじらせて肺炎により他界した。ベルクソンはユダヤ人でもあったため、ごく少数の近親者だけで、ひっそりと見送られたという。
(ジャック•シュヴァリエ著『ベルクソンとの対話』みすず書房、などを参照した)

<参考文献>
新渡戸稲造著『東西相觸れて』(昭和3年刊、實業之日本社)
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