練馬区中村に、南蔵院という真言宗のお寺がある。ここに「首つぎ地蔵」がある。

正木直彦氏の『回顧七十年』(昭和12年、学校美術協会出版部刊)に、この「首つぎ地蔵」のことが紹介されているので記してみたい。
〈南蔵院/練馬区〉

正木直彦は31年もの間、東京美術学校の校長を務めた。その間、日本の美術行政に大きな足跡を残したという。台東区にある、現在の東京芸術大学の正木門には、彼の陶像があり、正木記念館もある(正木記念館の内部は、ふだんは見ることができない)。

大正8、9年のころ、正木直彦の居宅に加藤居山という蒔絵師が出入りしていた。彼はお小遣いをねだっては、よくお酒を飲んでいたという。

大正震災の直後、その加藤居山がやってきた。彼は「いつも厄介をかけているので、そのお礼の印」だと言って、風呂敷包みを持ってきた。そのとき、直彦は不在であったため、奥方が対応していた。その風呂敷包みの中身は、なんと地蔵の首だったのだ。奥方はびっくりして、「まァ気味が悪い。そんなものを戴いても困るから、持って帰っておくれ」と言った。ところが居山は「先生が見れば、いいものを持ってきてくれたと言うだろう」と言い残して、地蔵の首を置いて行ってしまった。そのうちに、居山は亡くなり、地蔵の首は、庭に置いたままになっていた。

昭和7年11月5日のこと。直彦と奥方は、護国寺でおこなわれていた読誦会に参加していた。読経後にお茶をすすりながら、ほかの参加者と世間話をしていた。
〈護国寺/文京区〉

すると、医師の田島儀平という人が、前の晩に見た夢の話を始めた。その夢というのは、面識のない団琢磨があらわれて、恐ろしい形相をして、「あんたの診断は間違っている。怪しからん」と言った。おかしな夢を見たものだと思っていた。護国寺へ向かうその朝、団琢磨の墓を見たところ、ちょうど彼の命日だったというのだ。
〈団家のお墓/護国寺/文京区〉

続けてもう一人、守家廣太郎という人も夢の話を始めた。守家は広々とした野原を歩いていた。すると、路傍に首のない地蔵が淋しそうに立っていた。次の日も同じ夢を見たという。

その翌日、守家は府内八十八箇所巡りに参加した。練馬の南蔵院に行き、ひと足先に石神井の長命寺に出かけようとして歩いていた。すると、なんと首のない地蔵が目に入ってきた。それが夢で見たものとそっくりだったというのだ。

その話を聞いていた直彦の奥方は、自宅に置いたままの首だけの地蔵を思い出していた。そのことを守家に話すと、彼は非常に喜んだ。

〈南蔵院/練馬区〉

11月23日、正木夫妻と守家は、石工を連れて、首と胴体を合わせてみたところ、割れ目がぴったりと合わさった。29日には、南蔵院で盛大な供養がおこなわれたという。
〈首つぎ地蔵/南蔵院/練馬区〉

〈首つぎ地蔵の案内板/南蔵院〉

※「首つぎ地蔵」は、「首接地蔵」、「首継地蔵」とも書くようだ。当時、不況下にあったため、ずいぶんと話題になったらしい。
〈正木家のお墓/護国寺/文京区〉

以上