「やりたい!」と
「やりたくない。。」は
全く同じ場所にある。

先日「トキメキに命使いたい」の記事を書いたけど

あの記事は私のヒトカケラとして存在していることで
それとセットとなってあるのは
「トキメカナイことはやりたくない」がある。

当たり前かもしれないれど
更新後暫くして、違和感が出た。

トキメキくことに命使いたいのは全く違和感ない。
トキメカナイことなら、やりたくないのも全く違和感ない。
書いてるときは広がり感じてた。

でも、その後感じた違和感も事実。

そして自分に問いかけてみた。

「やれなかったらどうなるの?」
   ↓
「自分を生きてる感覚がない」
  ↓
「やれたら何を得られるの?」
  ↓
「自分でいてもいい居場所」
  

まじか。いや。はい。そうです。

そう感じて生きてきた。

自分でいてもいい居場所が欲しいのは
自分でいてもいい居場所があると感じてないから。
安全な場所確保して、強化したい思いがある。





記憶に留まったまま握りしめた傷は
もう痛くなくなっても
傷は傷の姿して残ってる。

傷を一個ずつ癒してたら正直キリがないけど
傷も目的を果たしたくているんだよね。
それを無視してるのは自分。
でも、傷だと認めないのなら、変わりようがない。

だからこうして、違和感として
肩叩かれて「この傷まだもってますよ?まだ続けるの?」
と立ち止まらせてくれる。

やりたい!の想いは純粋でも
そこに付随した恐れがあるなら手放した方がラクだ。
やっても、やらなくても、自分でいたい。
条件満たすの頑張っても
「条件満たすこと」を追いかけるなら満たされるはずもない。


自分でいてもいい居場所がほしい
私は必要とされない=ありのままで必要とされたい
私は意味ない=ありのままで認めて欲しい
私は迷惑=ありのままを許してほしい


正論並べたがる大人の私が
居場所を求めた私(記憶)に無意識にやってきたことは
「そうは言っても、自分にしかなれないんだから、自分でいちゃだめって思う方がダメだろ。」
「そう感じる私がダメだ」
「バレたら嫌われる」「バレたら呆れられる」...
等々、自我(エゴ)がフル稼働して

「居場所」
「存在意義」
「許可」
「権利」
「役割」
「価値」

これらでブレーキかかる。

ドラマチックでもあるんだよね。それも。
ダウンしたとき、アップを感じられると分かってるから。
ダウンした場所で上向くと、
大空が迎えてくれると分かってるから。
そこからみる光たるや神秘的で自由で
それはそれで、アートを感じるから。

そこで培った思い達が戦友と化してる。
戦友と化したものは喜びに還して
古くなった記憶は生まれた場所に返す。


さて。
改めて。

トキメキに命使いたいねおねがい。なんであっても。
生まれたトキメキに制服着せたい訳じゃない。
トキメクから生まれるものがある。
それが何色の空でも、この心でときめける。

ただ、生きてみよう。
ただ、楽しんでみよう。

話はそれからだ。