福岡のお菓子と言えば?
考えて、やっぱりこれかなぁ…
と
鶏卵素麺。
詳しく…知っているか?
ん…
鶏卵素麺のことを思ったときに、ふと思ったのは、
卵白はどのように使っていたのだろう?と
思ってしまいました。
菜の花
Fios de Ovos 鶏卵素麺
新生 鶏卵素麺
鶏卵素麺
今までも鶏卵素麺について調べていたんですけど…
昔調べた時よりも、Fios de Ovosも調べやすかった!
情報量が増えた。
鶴乃子とは、福岡県福岡市博多区の石村萬盛堂で作られている菓子で、福岡市の土産菓子として知られる。
1905年(明治38年)創業の石村萬盛堂は鶏卵素麺を専門に作っていたが、鶏卵素麺が卵の黄身のみを原材料とするため、白身が余ってしまう。
創業者である石村善太郎が、この余った白身をマシュマロにして、中に黄身餡を入れ発売したのが「鶴乃子」である。鶴の子もちとは関係がない。
フォイトーンはフォイが糸、トーンが金、つまり金の糸という意味。煮立てたシロップの中に卵黄を細く垂らして作る日本の鶏卵そうめんとまるで同じお菓子。細長い形状から「長く一緒にいられますように」という意味を込め、タイでは結婚式で見かけることの多いお菓子、そんなところも結婚式の引き出物になる鶏卵そうめんと同じだ。「ただ、ジャスミンの香りが付いている」懐かしの甘~い和菓子のイメージが、ふっと見知らぬ異国の食べ物に入れ替わった。タイのお菓子には香りを付けたものが多い。「パンダン(香りや色付けに使う植物の葉)を使ったり、香料が入ったロウソクでいぶしたりしてお菓子に香りを付けるんです。ジャスミンやイランイランなどお花の香りが多いです」タイの家の庭でよく見かける花、ジャスミンが香るお菓子が多い。タイではアユタヤ王朝の時代に、ようやく海外からの影響で菓子作りに卵が使われるようになった。そして、お菓子には、鶏卵よりも発色がいいアヒルの卵を使うことが多い。「タイの人は日本人よりも卵の生臭さに敏感です。だから、ジャスミンなどの香りを付けるんです。」9つの縁起菓子うち7つが卵を用いた黄色いお菓子。そして、それぞれが昇進、金運など、かなり具体的な意味を持つ。例えば、花の形をしたお菓子「トーンイップ」のイップには、取る、という意味があり、金銀財産が取れますように(入ってきますように)、という願いが込められ、緑豆あんのお菓子メットカヌン(メットは種、カヌンはジャックフルーツ)は、援助するという意味の「ヌン」という言葉にカヌンが似ていることから、協力する人がたくさんいますように、といった意味が込められている。仕事運を上げてくれるのが、卵を使わないお菓子「カノムチャン」(チャンは層という意味)。タピオカ粉などを使った透明感のある薄い生地を何層にも重ねたもので、層状であることが一段一段上がっていく様子をほうふつとさせることから、どんどん高い地位についてください、昇進しますようにという意味を持つ。
この出典は?
室町時代の1541年(天文10)ポルトガル船が豊後(ぶんご)(大分県)に漂着して以来、ポルトガル、スペイン、オランダの船が日本に渡来したが、その際、鉄砲や洋酒などとともにもたらされた菓子を総称して南蛮菓子といった。
南蛮菓子にはビスカウト(ビスケット)、カステラ、コンペイト(金平糖)、アルヘル(有平糖)、カルメル(浮石糖(カルメラ))、ヒリョウス(飛竜頭=がんもどき)、ボウル、玉子素麺(そうめん)、パンなどがあり、キリスト教の宣教師たちは、布教の手段にこれらの菓子を用いたほど、当時の日本では珍重された。とりわけ金平糖などはなかなか製法がわからず、井原西鶴(さいかく)の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』には、金平糖作りに苦心した当時(1688ころ)のようすが描かれている。その金平糖も仕法が解明されると貴重品扱いはされなくなり、有平糖などとともに並菓子になった。またカルメラは製法も簡単なところから早々に駄菓子に転落し、今日では姿をみるのさえまれになってしまった。
一方、カステラはバターを使わない和風ケーキとして、南蛮菓子から和生菓子に転進を遂げ、現代に至るまで上菓子の座を保っている。また南蛮菓子は地方銘菓にも足跡をとどめた。このうち福岡県博多(はかた)の鶏卵素麺、佐賀の丸芳露(まるぼうろ)、京都の蕎麦(そば)ほうる、愛媛県松山のタルト、広島の和蘭(おらんだ)ばってん棒などは有名である。さらに南蛮菓子の渡来は砂糖漬けの手法をももたらし、多くの地方銘菓を生んだ。
ポルトガルの食文化 こちらは、日本調理科 学会誌Vol.28No.3(1995)の文献のようですね。
日本の鶏卵そうめんは,現在博多の名物菓子のひとつである。ポル トガルの鶏卵そ うめんの名はフィオス・デ・オボス(卵の糸の意)。 卵黄を,熱した砂糖蜜の中に,じ ょ ろのよ うな もので糸状にたらして作るのである。この菓子は,1600年代には日本に伝えられ,江戸初期の 『南蛮料理書』にもその作り方がみられる(写真5)。ポルトガルの卵そうめんは日本に比べて柔らかく,ケーキの飾りなどに使われることが多く,卵の風味がとても美味しい.また,この菓子はポルトガルの植民地マカオや東南アジアなどでも見られるという。
こう書いてありました。
こちらには、ポルトガルのことが書いてありました。
昔は衣類の糊づけに使われた卵白。
現代では逆に卵白が余っていると思うのだ…
ということで、卵白を使っていたから、その残りが卵黄ってことだったんだ~って。
この方は、いろんな和菓子のことを書いてあります。
すごいなあ~って思いますわ。
寛永二十年(1643)に印刷刊行された『料理物語』には「玉子素麺」がみえるので、これ以前には日本に伝わっていたものとみられる。調理法は、よく溶いた卵を、割った殻でですくい、沸騰させた砂糖液の中に、糸のように細く垂らして入れて固めるとしている。玉子素麺は『南蛮料理書』(成立は17世紀前半?)にもみえる。「葛そうめんをつくるように」とあって、葛そうめんはじょうごでたらして作るとある。
そっか…
そちらに
江戸時代の砂糖食文化 ~長崎警備とシュガーロード~
ということで、2011年6月10日に北九州市立大学文学部 教授 八百啓介氏のお話がとっても参考になりました。
江戸時代には砂糖をはじめ長崎における輸入品の大半は、長崎から船で平戸・下関を経て瀬戸内海に入り、大坂に運ばれたはずである。にもかかわらず長崎から佐賀・福岡にかけて砂糖を原料とした菓子の文化が早くから発展した背景については、有明海沿岸における唐船や薩摩藩との密貿易の存在を指摘する説もある。
しかし、重要なことは佐賀藩・福岡藩・大村藩・平戸藩といったこれらの領域を支配する藩が江戸時代を通じて長崎港と市内の警備をつかさどっており、その見返りとして砂糖などの輸入品を優先的に購入する特権を幕府に認められていたことである。そのことをよく示しているのが、長崎街道からやや外れた福岡藩の城下町博多に伝わる鶏卵素麺の存在である。鶏卵素麺は、ポルトガル菓子の「フィオス・デ・オヴォス」が我が国に伝わったもので卵黄をジョウロで糸状にして、熱した砂糖溶液に垂らしたものである。今日、東南アジアのタイにも「フォイ・トーン(金の麺)」という同じ菓子があり、16世紀の大航海時代におけるポルトガルの東進にともなう南蛮菓子のアジアへの伝播を象徴する菓子である。
なるほど~ってね。
この鶏卵素麺が長崎から福岡に伝わったのは延宝元年(1673)のことであったという。
寛永16年(1639)、幕府はキリスト教の禁止などを目的としてポルトガル船の来航を禁止する。それとともにポルトガルの報復に備えて、長崎に隣接する佐賀藩・福岡藩に対して、翌年から隔年交代で長崎港の戸町・西泊の番所の警護を命じるとともに、大村藩・平戸藩・島原藩・五島藩の4藩に対しては長崎市中の警備にあたらせた。
慶長18年(1613)、イギリスは平戸に商館を置いたが、元和8年(1623)日本から撤退した。延宝元年(1673)5月、イギリス船リターン号が長崎に入港し、国王の親書を携え再び貿易を願い出た。長崎奉行をはじめ現地の関係者の中にはイギリスに同情的な意見もあったが、結局、幕府は願いを認めずリターン号は2カ月後に退去する。
同年は福岡藩が長崎警備の当番であったため、藩主父子が長崎に赴いたほか、通常の千名に加え百数十名の藩士が長崎に派遣された。同時に同藩の御用商人であった大賀家に対して長崎警備の経費を賄うため年貢米を長崎で売却するとともに、必要な物資を調達することが命じられた。
今日、博多における鶏卵素麺の元祖とされる松屋菓子舗の由緒によれば、大賀家の手代であった初代松江利右衛門が長崎で中国人鄭氏より鶏卵素麺の製法を学び、延宝元年(1673)に3代藩主光之に鶏卵素麺を献上したことをもって創業としている。
当時、鶏卵素麺は藩主のための御用菓子であり、市中では販売されていなかった。福岡藩の儒学者であった貝原益軒の著した『筑前国続風土記』によれば、「長崎又他国より習て製するといへども、当国の製には及はす、国君の厨にても製す。其製もつとも精し。」とあり、藩主の台所で作られていたものが最高級品であったという。
これについて松屋第十二代目の松江國秀氏によれば、鶏卵素麺は砂糖・卵という貴重な材料を大量に使用することから、採算を度外視できる御用菓子商であるからこそ作り続けることができたのであり、また、献上菓子であるがゆえに、その製法も変化しなかったということである。
この具体的に書かれている物を読みながら、気づいたこと。
その1 鶏卵素麺は採算度外視のお菓子だったということ。
その2 長崎から学んできたんだ…ということ。
その3 卵も砂糖も手に入っていたということは…どこで作っていたのかなぁ?
こちらに書いてあったこと。
江戸幕府の禁教令によって,主だった日本人キリシタンが,宣教師らと共にマカオ・マニラへと追放されたのは,慶長19(1614)年のことである。この年に日本を出たキリシタンの数は,約300人程度という記録があるが,朱印船貿易そのものは,その後30 年近く続いたので,信仰の自由を求める人々の中には,マカオや東南アジアの日本人町へと移住していくものがあったと考えられる。これらのアジアの港町に移住した日本人たちは,早晩混血化を経て,現地人に同化していったが,イエズス会士たちは,海外在住の日本人の信仰維持を名目に,東南アジアの港町における教会建設と布教活動を広げていったのであった。マリア・ギオマールの生年は1664年で,祖父母は,日本からアユタヤへ移住したキリシタンであったことが知られている。母親は山田ウルスラというアユタヤ育ちの日本人であったが,父親はポルトガル系ベンガル人であったという。
1682年,マリアは18歳の時に,イギリス東インド会社の社員として1675年にアユタヤへやってきたギリシア人コンスタンティン・フォールコンと結婚した。それを機に,フォールコンはカトリックに改宗した。当時のアユタヤは,ナーラーイ王の治世下,比較的安定した国内状況を保っていたが,イギリス,オランダの東インド会社といったヨーロッパ勢力が進出し,それぞれが貿易独占を目論んでいた。当初はオランダ東インド会社に便宜を図ったナーラーイ王であったが,彼らの独占的かつ野心的な貿易方法を危険視し,華人船貿易の推奨に切り替えを図ろうとしていた。当初,イギリス側の人間であったフォールコンは,ナーラーイ王の宮廷で,外交・財務顧問としての地位を確立していった。アユタヤをめぐる西欧勢力の争いには,フランスの東インド会社も参入し,フランス側はフォールコンを抱え込むことで,アユタヤ交易への進出を狙っていた。フォールコンはフランスの軍事力を利用して,自らの勢力拡張を目論んだが,その目論見は,1688年に起きたペートラチャー将軍による革命によって潰えた。フォールコンは殺害され,マリアはいったん全財産を剥奪された上で,幼い息子二人を抱えて奴隷の身分に落とされた。しかしながら,ペートラチャーの王位就任後,特赦を得て,その宮廷の料理人となり,最終的には宮廷料理長の職を得たといわれる。そして,彼女が伝えたのが,ポルトガル起源のクレオール料理であった。フォールコンやマリア・ギオマールの数奇に満ちた生涯はその後,アユタヤへ来航する西洋人の間で伝説となり,語り継がれていったのであろう。
日本からアユタヤへと,キリシタン禁令によって逃れた日本人の子孫が,ポルトガル文化を継承し,タイにポルトガル料理を導入したという物語は,たとえ伝説であっても,日本とアユタヤがキリシタンやポルトガル人を介して結ばれていたことを如実に物語るものとして興味深い。
何でも検索していくと、いろいろと詳しい方の書いた話と知っていることが繋がっていく…って不思議な世界になってきますね。
南蛮渡来の黄金の菓子 博多名物、鶏卵素麺
こちらが大本なのか、見つけた詳しい文章を…また見失っている…という状況。
室町時代末期に長崎に伝来し、長崎街道を経て、大阪へ伝わった。大阪でこの菓子を製造するのは、元禄15年(1702)に創業した「虎屋伊織」が前身の「鶴屋八幡」。「虎屋伊織」は大名や豪商、茶人たちに愛されていたが、10代目継承者がいなかった。そこで、主人から信頼を得ていた今中伊八が任され、文久3年(1863)に「鶴屋八幡」の暖簾(のれん)を掲げ今に至る。代表菓子の『鶏卵素麺』は、上品な甘さで抹茶と相性がいい。
と、こちらはサライのお取り寄せに書いてあった文章。
福岡県民、トリ好きのルーツは江戸時代にあり?!
あぁ~なるほど…と変な納得。
鶏食べるという習慣がある地域になったのか、もともと食べる習慣があったのか…調べる必要があるけど、卵は手に入るなぁ…。
日本洋菓子の歴史を読む
ここまでくると、ポルトガルがメイン?
洋菓子のルーツになってました。
南蛮菓子と和蘭陀菓子の系譜
こちらを読んでいて、卵白はどうしたんだろう?の疑問に2つのことが思われました。
その1 カルメラって、卵白で作っていたんだ…ということを知り、なるほど~ってね。
その2 羽二重餅の作り方の一つに卵白を使うやり方があるんだよね。これって、もしかしたら…卵黄を使ったあと?なんてね。わかりませんが、佐賀にある「けいらん」は、羽二重餅なんだよね。もしかしたら卵白使っていないかもしれないけど、昔は使っていたかも?なんて思ってしまいます。豊臣秀吉の朝鮮出兵などがエピソードにある当たり、もはや「けいらん」と「鶏卵素麺」は卵白と卵黄の使いわけかなぁ…と。このことに伴って、千利休も佐賀に来ているはずだし…ってね思っちゃいます。
キリスト教の布教活動に葡萄酒と南蛮菓子を振る舞ったことが記されているし…。
だいたい、黒田如水はキリスト教信者だったし…。
鶏卵素麺って、日持ちしないよねぇ…と思うのです。暑くなると溶けるし…そう思えば、卵白を使ったお菓子の方が使いやすいでしょうねぇ…と思いました。
カルメラって、マカロンみたいなものだったのでは?とか、これまた調べないとはっきり言えないけど…。
お茶席で「せんべい」って甘いせんべいは卵白使っている?とか思えないわけでもないし…。
淡雪も卵白、月世界など…
卵白を使ったお菓子も思いつける。
ただ、いつから?という歴史をちゃんと調べているわけではないからねぇ…。
豊臣秀吉朝鮮出兵の時にすでに鶏卵素麺があったとしたら?きっと、織田信長の口にも入っている気がする…と思えば、日本中に職人が居れば作りたいお菓子だったのではないかと思いますね。
貴重すぎるお菓子だっただろうなぁ…と、藩の御用菓子だったから、庶民は口にできなかったと思います。だけど、日本全国を見ても、知れ渡っていて作ることができるかもしれないけど日持ちしないなら…おもてなしのお菓子としては素晴らしかったのではないかと推測します。
明治になって、松屋以外にも製法が伝わって作られるようになったのか、闇で江戸時代から鶏卵素麺を作る人が他に居たのかはわかりませんが、今では作っている菓子屋は少ないのですが、結構昔はあったと伺っていますね。
鶴乃子のルーツにも、この鶏卵素麺が絡んでくるあたり、本当に福岡のお菓子の歴史を見る時には欠かせないと思われますわ。
お店の方には常温で保存できますよって言われましたが、そのイメージがあまりないお菓子ですね。
調べ始めると、いろいろ脱線したくなるくらいに、調べるのは脱線したのですが、他のことも記したく思います。
いろいろをいっぺんに書くと面倒だから終。