暮らしと算命学*「種と場の関係は陰陽論の法則」 | イケジイのおもしろ玉手箱

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暮らしと算命学*

「種と場の関係は陰陽論の法則」

 

最終学年の夏休みが終わると、一斉に学生たちは就職活動に入りますが、陰の時代から陽の時代に変化すると、企業と言えどもその変化に合わせるためには相当の努力が必要です。

 

むしろ学生の就活より、企業の生き残り戦略の方が数倍のエネルギーを必要とすることになるやも知れません。

陰の時代に勝ち組だった企業は、時代が変われば新しい時代にはそぐわない会社に振り落とされる可能性もあります。

 

一方の陰の時代には振り向いても貰えなかった企業が、特殊技術を開発して、一躍大躍進を成し遂げるのもこのような社会の変化を上手に捉え、一流企業へと大変身していきます。

 

このような社会が混沌として先々不安定のときには、売り手側もまた受け入れる側も「不安定要素」を考慮しての就活をしなければなりません。

 

就活で難しいのは、「自分はこの場で花が咲く」と思っても、受け入れる側は「種を選ぶ権利」がありますから、土壌に合わないような「種」は切り捨てられるかも知れません。

 

また、実際には逆のパターンもあるわけで、企業から明日からでも出社して欲しいと、強烈にラブコールされても、自分にその気がなければ陽の目を見ることはありません。

 

就活では、「種と場の闘い」であり、種の目的を果たすための場所選びであり、一方の場は、場が必要とする種を求めているために、ミスマッチが発生しやすいのです。

 

本来は双方とも、「適材適所」が理想と分かっていても、それぞれの思惑から外れてしまうことも考えていなければなりません。

 

「種」は場を選び、

「場」は種を選ぶ

 

「種と場の関係」は、何も学生と企業の関係だけではありません。算命学中の「陰陽論」にも記されているのです。

「陰陽論」とは、一日は昼と夜の一極であり、男女も人間としての一極なのです。

 

この世の自然界の中で、「一極」を形成するものは数多くありますが、長と短、大と小、表と裏、暖と冷、明と暗、昼と夜、男と女、強と弱、光と影、白と黒など例を挙げれば切りがありません。

 

この「一極」を考える場合、例えば「白と黒」の場合は、「白に近い黒から黒に近い白」に至る距離間は、正に「真逆」に至る距離があるのです。

 

就活とは立場上においても正に「逆縁」とも言える状態で相手を選ぶわけですから、失敗しても当然であり、期待外れも当然と考えて置かなければなりません。

 

しかし「一極」とは最大で一線上の「端と端」の関係で、時間はその端から端まで通過しますから、全く無関係の関係では無く、双方がどれだけ相手に近づけるか、またどれだけ理解することが出来るかが問われる関係です。

 

*種は場を選ぶ

日頃、健康維持のために、ボケーッとしながら散歩を試みていますが、いつも不思議に思うのは、石垣のほんの小さな隙間に花が咲いているのを見かけます。

 

種が先か、土が先かは、土が先でなければ種は付着しないでしょうし、成長もできないでしょうが、もちろん同じ場所には他の種も付着していても不思議ではありませんが、たまたまその花には生育に適した場であったのでしょう。

 

このような小さな場であっても立派に「陰と陽」の関係が成り立っているのです。どこからともなく飛んできた種が「陽」だとすれば、石垣の隙間に溜まった土は「陰」の状態であり、陽と陰の「自然融合」の関係です。

 

公園の花壇のバラは見事に美しく咲いていますが、見る人たちに憩いと安らぎを与え、自らも立派に役割を演じています。

また近くに咲く花たちは、主役が引き立つように地味ですが、側でそっと彩りを添えています。

 

今度は、花から人間に置き換えたらどうでしょうか?

人が輝いて見えるようになるには、「適材適所」の環境がベストですが、天性に所有している才能を磨きあげた状態で、環境が一致しないと成果は期待できません。

 

ところが現実界は「お金を稼ぐところ」です。

人も羨むような大金を稼ぎたいと思えば、それだけリスクも高くなります。サラリーマンで普通に生活して人並みなことをして、大金を得ることは先ずあり得ないと言えましょう。

 

大金を手にしたければ、それなりのリスクを取って、独自な生き方を選択しない限り手にすることは困難ですが、同時に裏目に出て失敗すれば死をも覚悟しなければなりません。

 

「場」は種を選ぶ

種と同じように花の世界で例えれば、高山植物が低地の野辺に育つわけでもなく、反対に野辺に咲く花が、厳しい環境の高い山岳に咲ける環境ではありません。

 

自然界でも「場」という土壌は様々ですから、砂地もあれば黒土や腐葉土、田んぼや畑など土質が異なれば、育つ種も限られます。

 

田んぼは「稲作用」には適しているでしょうが、同じ土質であっても、水田ではほうれん草や大根を植えたとしても、種が腐ることはあっても、生育するのは無理かも知れません。

 

しかし、同じ田んぼでも夏には水田にして稲作用に利用し、秋の穫り入れが終わったら、水田から水分を除き、麦作用に切り替えて使用していました。これも戦後の食糧難の時代でしたから、農家にしてみれば当然の策だったことでしょう。

 

最近は冬場の麦作農家は殆ど見られませんが、時代の変化と共に、麦は手間ひま掛けた割には農家のメリットは少なく、寧ろ外国から輸入した方が安上がりとなり、次第に農家も麦作から退いていったのではないでしょうか。

 

今度は男女の世界で考えて見ましょう。

「種」が男性だとしたら、「場」は女性です。

「種」は基本的に、あちこちとばら蒔いていくのが「種」ですから、少々環境が合わなくても、無理やりばらまく場合もあります。

 

運良く芽が出てくればラッキーもので、そこに定着するかも知れませんが、蒔いた種があちこちに芽が出てくると、少々厄介な問題が発生してきますから、最終的には種を蒔く場所を特定しなければなりません。

 

しかし時には種も場も何ら支障がなくても、種を蒔いても蒔いても芽が出てこない場所もあるようですが、本来からすれば考えられないことではないでしょうか。

 

種と場が融合しないと言うことは、どちらかにその原因があり、種と土壌が合わないために、敢えて手を加えて土壌に植え付けなくてはならない事態にもなっています。

 

さらに厄介なのは、「芽が出たら困る」というカップルです。

これも時代の変化や生き方の問題でしょうが、種と場の役目を放棄した状態は、人生のどこかで後悔の念が芽生えてくるかも知れませんが、その時には既に遅しという事態にもなりかねません。

 

私は種だからこそ、場に期待しています。

そして「場」は、「種」を正しい目で見定めなければなりませんが、基本的には分相応な種を選ぶべきで、種と場が大きく乖離していれば、長く連れ添うことは難しいかも知れません。

 

夫を育て、子供を育てるのは、他ならぬ「母なる大地」そのものです。

夫や子供の輝きは、母なる大地が陰で支えているからこそ、純粋に表でキラキラと輝きを放つのです。

 

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