10月3日の土曜日は
同級生のお通夜でした。

参列するため仕事を少し早めに切り上げて
東京まで行ってきました。


小・中・高と同じ学校に通い、
高校では野球部のチームメートだった同級生。


50歳での死は早すぎるように思えます。


私の知る彼は人懐っこくて、
性格も明るく、
そのうえ愛くるしい童顔で、
私たちの仲間からは「ベイビー」と呼ばれ、
人気者でした。


しかしベイビー本人や周りの人間から聞いた話では
ここ数年、仕事関係での挫折や体調の不良が重なり、
塞ぎ込んでいた時期もあったようです。


だから私を含めベイビーをよく知る仲間内では
彼のことを心配する声も少なからずありました。


特に東京にいて、
ベイビーと近しい間柄にあった仲間の気遣いは
大きいものだったと思います。


そんな彼らから届いた突然の訃報。


ただただ驚きとショックでした。


こんな報告をしないといけない東京の連中も
さぞかし不本意な想いだったことでしょう。


「なぜ?」 「どうして?」

詳細は分からないまま、
答えの無い問いを繰り返す。


病死なのか?

もしかしたら自ら命を絶ったのか?

もしそうだったとしたら、

「何かもっと出来ることがあったのでは」

そんな想いも何度となく心に浮かぶ。


私は意味など無いと分かりながら
SNSでのベイビーの足跡をたどったりしていました。


皆、何かで自分を納得させようとしていたのではないかと思います。


でもよくよく考えてみたら
納得なんてできるはずがありません。

納得しようなんて思い上がりです。

誰もベイビーの抱えていた闇を理解することはできなかったし、
苦しみを共有することなどできなかったのです。


そして我々は皆、既にいつもの日常を生きています。


私は翌日曜日の告別式には出席せず、
娘の体育大会の観戦に行きました。


戻るべき日常があるということは
ある意味生きていく支えがあるということです。


もしかしたらベイビーには
この世に踏みとどまらせる
日常という支えが無かったのかもしれません。


でもそれもわかりません。
全然違うかもしれません。


ただ、
何とか自分の気持ちに区切りをつけられるとしたら、
ベイビーは死ぬことで苦しみから解放され、
楽になったのだと思うことくらいでしょう。


そして祈るのみです。


さよならベイビー 安らかに眠れ