浦項市 視察研修旅行 その1~「九龍浦 日本人街」 | アイケーブリッジ 幡野泉の韓国語・中国語ブログ

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虎ノ門のアイケーブリッジ外語学院、幡野です。韓国留学後、韓国語学校を設立。中国語やロシア語講座も開始。海外の文化、言語が好きで、橋渡し業に使命感を抱いています。家に帰れば二児の母。夫と夫の両親との6人家族。仕事のこと、プライベートのこと自由に書いています。


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5年ぶりの、当校挙げての視察研修旅行に行って参りました。行き先は、韓国の浦項市。なぜ浦項市に行くことになったのかは、こちら をご覧下さい。


浦項市観光の一日はまず、九龍浦(구룡포)という漁港の見学からスタート。なんとここには日本人街が残っているというのです。


韓国という国を深く知る多くの方は、「ええ?ほんとう?」と思うのではないでしょうか。


日韓は、今でさえ人的交流が進み、個人レベルではお互い違和感なく付き合うことができますが、社会的、政治的レベルにいくと、「日本的なるもの」が、韓国の社会的タブーである面もまだなきにしもあらず。


しかし、浦項市からの誘致の手紙には、その街について触れられ、日本とのゆかりを大切にしている様子が受けて取れました。また日本人街独自のパンフレットも添えられていたのです。


「行政が日本人街の保存を後押ししている」ということに対し、私は半信半疑というか、嬉しい意味での違和感のようなものがあったのも確か。どんなふうに保存されているのだろうか、と興味津々でした目



足を踏み入れてみると、想像以上の規模。


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アイケーブリッジ 幡野泉の韓国語・中国語ブログ (全(1927年には120世帯を超えたという日本人街)


この日本人街がどのような経緯で発展したのか……。


「橋本善吉商店・住宅」が現在博物館のようになっており、その展示の中で解説されています。以下の画像の下の部分の日本語です。抜粋させていただきます。


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「香川県の貧しい漁師たちの朝鮮出漁は、1880年~1884年頃に始まった。

(中略)

1883年「朝日通商章程」が締結され、日本の漁師たちは本格的に朝鮮海で魚を捕った。1908年頃、香川県の貧しい漁村・小田村の猟師たちと、岡山県の猟師たちが中心になって、九龍浦に移住した。


九龍浦に本格的に基盤を築いた代表的な日本の猟師としては、九龍浦公園内・功徳碑の主人公である十河彌三郎(とがわ・やさぶろう)と、橋本善吉(はしもと・ぜんきち)がいる。


岡山県から移住した十河彌三郎と、香川県から移住した橋本善吉は、九龍浦・日本人移住漁村の二つの柱となった。九龍浦の豊かな水産資源は、日本の猟師達の夢を叶えた。(以下省略)」


なるほど。戦中の政府関連の施設などはなく、貧しかった日本人漁民の新天地であったという点も、こうしてなんとか残しておいてくれている要因なのかもしれません。


その、橋本善吉商店・住宅の全景です。
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中は日本人の生活の様子が分かる展示物が置かれています。


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これは台所ですね。



また、この地域には高台に、九龍浦が一望できる九龍浦公園があります。公園の中には神社も。そう、日本の神社だったわけですね。


神社に向かう階段入口。「九龍浦忠魂閣」という文字が。



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上まで連なる石碑には、韓国人の名前が彫られています。


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実はこの裏側には日本人の名前があり、すべて見えないようにセメントで塗られています。


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戦中、神社に貢献した日本人の人物名があったのを、戦後塗りつぶし、裏側にし、韓国人名を新たに彫ったようです。


でもこの中に、一つだけ「十」という漢字だけが塗られず読むことができる石碑があります。それが、「十河彌三郎」氏。なぜ、彼のものだけがかろうじて分かるようになっているかは、神社の境内に行くと推測することができます。

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この碑の右下にある説明書きより。

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この碑は十河彌三郎を讃えて建てられた頌徳碑である。十河彌三郎は日本の強占期、九龍浦の防波堤の築造や道路開設などに係わった人物である。

日本人たちは彼の業績を讃えるために日本から珪化木を輸入し、強占地から解放される前の1944年に頌徳碑を建てたという。


敗戦により日本人たちが日本へ引き上げた後、九龍浦の住民がセメントで碑を塗りつぶしたので、現在碑文の内容は知られていない。」


「強占期」であったから、日本のものは消したい、消さないといけない。でも、防波堤を作ったりした氏に対し、少なからず韓国人も何らかの感情が動いたのかもしれず、しかし、表だって讃えることができないため、階段の碑だけはひっそりと、氏のものが分かるようにしたのでしょう。


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(九龍浦を一望できる九龍浦神社・公園境内にて、今回始めての集合写真)


日本的なるものを消そうとする心理も自然であれば、かつて共生していた人々の息吹も大切にしたいという思いも自然なこと。


そんな一見矛盾するような、危うい美しさを感じる場所でした。



観光には浦項市が手配してくれたボランティア通訳さんが同行してくださったのですが、その方が、こんな風におっしゃっていました。


「この日本人街は少し前に全面的に改築されたのですが、以前の方が……当時の様子がより分かりましたね」と。


前はどんな感じなのか気になり、帰ってきてからインターネットで検索してみたところ、3年前に旅行された方が以下のようなブログをアップされていました。



「九龍浦神社
九龍浦公園(九龍浦忠魂閣)」

http://nekonote.jp/korea/old/fukei/pohan/9-jinja.html


「橋本善吉商店・住宅
九龍浦日本人通り広報展示館」
http://nekonote.jp/korea/old/fukei/pohan/9-hasimoto.html



これは全然違いますね!確かに、以前の方が日本らしいような気がします。でも、確かに老朽化はひどいか……。そのまま残すにも耐久性に問題があり、改築すると以前のおもむきがなくなり……非常に難しいところですね。


さて、お次は海辺の景勝地へ!「その2」に続きますニコニコ

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