『坂の上の雲』と司馬史観

1.作家司馬遼太郎(1923~96)の代表作ともいえる歴史小説『坂の上の雲』。松山出身の軍人秋山兄弟と俳人正岡子規を軸に、日露戦争とその時代を描いた作品は小説の枠を超え、「司馬史観」という言葉が生まれるほど、日本人の歴史観に影響を与えてきた。時にナショナリズム高揚に結びつけられることもあったこの作品は、現実の歴史に肉薄しているのか。それとも、歴史をベースにしたエンターテインメントに過ぎないのか。研究者や歴史学者らに聞いた。

 

2.司馬史観を史実と盲信している人は数多く、層も厚い。司馬氏の作品は出処を列挙しないので、あれでは多くの人が事実としか読めない。また、そうさせるのも司馬氏が読者を喜ばせ、元気を与えることが自分の役割だったと本書にあるように司馬氏にも歴史を誤認させる読者層を作ってしまったことには責任があるだろう。司馬作品の最大の欠点は犠牲者である民衆があまりにも無視されていることだろうか。本書を読む限り、「坂の上の雲」ではあまりにも美談すぎていて、やはり創作の範疇なのだろうと実感した。

 

3.日露戦争の天王山となった1904年の旅順要塞・二〇三高地を巡る激戦。膨大な戦死傷者を出し続ける乃木希典将軍と参謀らの作戦指導に危機感を抱いた児玉源太郎総参謀長は、ついに乃木の指揮権を剝奪し、自ら二〇三高地の攻略に乗り出すことを決意する。どうやって親友・乃木のプライドを傷つけず指揮権を手にするか――。知恵を絞った児玉は、乃木に事態の重大さを気づかせまいと、こう語りかける。「おぬしのその第三軍司令官たる指揮権をわしに、一時借用させてくれぬか」

 

4.史料を尊重しつつ、想像力を駆使。緊迫した状況とのんびりした言葉との対比が際立つ『坂の上の雲』屈指の名場面だが、従来は「司馬遼太郎の創作では」との指摘もあった。「新史料による日露戦争陸戦史」などの著書がある戦史学者の長南政義によれば、史料「機密日露戦史」には、児玉が乃木に「一時軍司令官の指揮権をも借用したき」と話した旨が明記されている。ただし、描写は淡々としており、司馬の筆から立ち上る臨場感からは遠い。史料を尊重しつつも、想像力を駆使して会話や情景を書き加えたり、史実のある部分は大胆に省略したりして、読者が感情移入できる「物語」へと仕立ててゆく司馬の、卓越した力量が感じられる。

 

5.「日露戦争そのものは国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争であった」〔あとがき5〕

しかし、批判ということでいえば、右のような日露戦争についての司馬の評価も、連載当時の風潮からすれば多くの知識人にとって受け入れ難いものだった。いまの若い読者は気がつかないかもしれないが、司馬遼太郎という歴史小説家は異説の人であり、その作品は偶像破壊的なものが少なくない。いま司馬作品は多くの人にとって「常識」となり偶像破壊の対象ですらあるが、当時は必ずしもそうではなかった。

この天才は、敵の旗艦スワロフやオスラービアなどが猛炎をあげて沈もうとしているとき、そのことに勝ちを感ずるよりも、明治をささえてつづいてきたなにごとかがこの瞬間において消え去ってゆく光景をその目で見たのかもしれない」〔あとがき5〕

秋山真之は日本海海戦での勝利後、宗教的なものに傾斜する。少年時代、司馬は徳冨蘆花の『寄生木(やどりぎ)』を読んだが、この小説は、乃木希典の書生となり優秀な成績で陸軍に入りながら挫折した人物の手記を元にしたもので、「そのころの私に絶望を教えた」〔あとがき5〕。その蘆花は日露戦争後、〈日本よ、爾は成人せり。はたして成長せるや〉と激しく問うた。「蘆花の憂鬱が真之を襲うのもこの時期である」〔同〕。

頭の中の夜の闇が深く遠く、その中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行った」〔あとがき6〕

作品を書き上げたときの感慨である。膨大な文献を渉猟し深く思いを巡らしたが「その切迫感が私の40代のおびただしい時間を費やさせてしまった」〔同〕。

6つの「あとがき」では作品で秘されていた思いが吐露されていると言おうとして、やや理屈っぽい話になってしまった。今回の「100人の名言」は、登場人物たちの生き生きとした言葉を収録した新書であり、なによりも快活な「坂の上の雲」の言葉の世界を楽しんでいただけるはずである。