島根県と囲碁

 島根県と囲碁の結びつきは非常に深いものがあります。古くは『出雲風土記』の中の「嶋根郡」の「玉結浜」(現在の美保関)に「碁石あり」の記述が見られ、古代から縁のあったことが知られています。

江戸期以降、島根県出身棋士による活躍はめざましく、島根県出身棋士を抜きにしては囲碁史が語れないといっても過言ではありません。

◆本因坊道策と山崎家

 まず筆頭に挙げられるのが本因坊道策(16451702、本因坊家4世当主)の存在です。通常激しい争いの生じる江戸期の名人就任の際にも、その圧倒的な実力により他家からの異議が全くでなかった唯一の名人であり、今なお史上第一位に推す人も少なくない大名人です。それまでの局部的な戦闘力を基盤としていた碁に、碁盤全体を立体的に捉えた新手法を導入したことはまさに革命的なことでした。また石の効率という観点を追究した把握・判断方法は、現代でもほぼ踏襲されているきわめて科学的合理的な理論でした。その他、江戸期の四家による囲碁家元体制の安定的確立にも尽力するとともに、多くの弟子の育成にも努めた囲碁史上最大の巨人です。

道策を生んだ馬路の山崎家からは他にも、道策の実弟である井上道砂因碩(16491697、井上家2世当主)や井上因砂因碩(17851829、井上家9世当主)と二人の井上家当主も輩出しています。

◆松平家の碁会と岡田頼母

 囲碁史上最大の争碁といわれる本因坊丈和と赤星因徹が対局した「吐血の局」の舞台となった「松平家の碁会」(1835719212427)は、全家元、跡目クラスが総出演した空前絶後の規模での碁会として知られています。この碁会を主催したのが当時老中首座だった浜田藩主の松平周防守康任で、実際に碁会を取り仕切ったのは浜田藩国家老の岡田頼母(17631836)でした。頼母は浜田藩国家老として長年藩政に携わる一方、安井家より五段の免状をもらうほどの実力の持ち主であり、当時の囲碁番付の上位に名を連ねており、この松平家の碁会でも打ち掛けながら対局をしています。

松平周防守家はこの後の仙石騒動や竹嶋密貿易事件により、坂道を転げ落ちるゆくことになるのですが、その寸前の最後の絶頂期を象徴するイベントとなってしまいました。仙石騒動により、929日には藩主康任の老中退任、129日には隠居・急度慎みとなり、康任の嫡子康爵が浜田藩主に就任しましたが、翌1836312日に奥州棚倉への転封が決定しました。その後今度は竹嶋密貿易事件が発覚し、515日に頼母は隠居剃髪しましたが、江戸呼び出し命令があったため、碁会開催から一年も経たない1836628日に、頼母自身も責任を取って自刃しました。

◆その他の島根出身の棋士

 大森出身の岸本左一郎(18221858)、安来出身の岩田右一郎(18351884)、仁万出身の内垣末吉(18471918)と続く系譜もそれぞれ碁界にとって大きな存在です。岸本左一郎は、本因坊門の塾頭を務めたこともある俊英で、因島出身の本因坊秀策が兄事したことでも知られています。没後本因坊秀和によって七段が追贈され、名代として村瀬秀甫(本因坊秀甫)が石見に送られています。仁摩天河内の満行寺前にある石碑によると、林元美が林家跡目に望んだとも刻まれています。左一郎の薫陶を受けた右一郎は、地元の安来周辺では画家としても知られています。内垣は外務官僚と棋士との二足のわらじを履いていたという異色の棋士で、合従連衡を繰り返した激動の明治期において非常に重きをなしました。この三人に関係した存在としては、知井宮出身の山本佐六(?~1902)もいます。現在、出雲民俗館となっている山本家に連なる人物で、地方にありながら方円社五段にまで昇っています。

 また異色の碁打ちとして大田出身の熊谷厳励(生没年不詳)も特筆すべき存在です。大田出身の在野の碁打ちで、当時のトップ棋士小林鉄次郎らを郵便碁で苦しめた実力はかなりのものでしたし、挑発的に「自覚坊天才」と自称したりしました。隠岐に住んでいたこともあることやアマチュア指導用の棋書を数多く出版していることは分かっていますが、詳細はよく分かっていません。

 さらに、「評の評」など鋭い論説と反骨の芸道精神で有名な松江出身の野澤竹朝(18811931)、関西碁界の基盤を作った三隅出身の田村嘉平(18791937)も囲碁史では挙げておくべき重要な棋士です。

 最近では(益田市出身棋士は後述するため除いています)、出雲出身の吉田陽一(1935~)、大社出身の桑本晋平(1972~)、江津出身の長谷川広(19812002)を輩出しています。

 以上のことから、囲碁史の中で島根県出身棋士がきわめて重要な位置を占めていることが分かります。