山の中の瞑想場から戻りました。



10日間。

僕の瞑想修行としては短い期間ですが、この山の瞑想場の滞在上限が10日間ですから最大限にお世話になりました。



近年、僕が修行場としているのはミャンマーですが、今回はミャンマーとタイの国境付近にある山の中で、国としてはタイです。

少し行きにくい場所にはなるのですが、本当に静かで、本当に本当に美しいところでした。



なので、
美しい写真や美しい話をしたいところなのですが、、



その前に、この瞑想場が、“批判的”に話されているという事実があるということを先に書いておきます。


僕もミャンマーでの修練中に他の修行者からそう聞いたことがあります。



その理由は、

[自由]

という一言に尽きます。



自由と聞いてどう思いますか?

おそらく良いイメージを持つ方がほとんどだと思います。

何にも縛られずにやりたいことができる。
ということだと思うかもしれません。



ただ、やりたい事をやり続けると、“いつも”と同じことになります。

それは、身体は違うことをしているように見えるけど心は同じだという意味です。


つまり、やりたい事が終わるとまたいつも通りに戻るのです。


勿論、それでも良いです。

でも、瞑想というものは、心の動きや在り方を知りたいと思う人たちが励むものです。


心に振り回される“いつも”に戻らなくなるように修練するのが1つの意味になります。


そうなると、この[自由]が “批判” の的になることは簡単に考えられます。




でも、

僕ら現代人が暮らす社会はどうでしょうか?



会社に働かされる?
家のことをしなくては?
周りの人に嫌われないように?


やらなくてはいけないことが多すぎて自由なんて無い!

、、、と言いますか?



全部、自由に自分で選んでいる事です。



もし、そう思えないのならそれは “自分にやらされている” だけです。

そして、その事を自分で気づいていないので誰かのせいにしているだけです。



僕達はいつも[自由]です。


つまりその自由がどういうことなのかをもっと知らないといけないんです。



僕はいつも生徒達に話しています。

「自由とは、心の話です。そして、いつでもどちらでも選べることが自由です。“どちらでも良いんです”。どちらもBestなんです。」




僕はこの10日間も変わらず自由に過ごしました。


瞑想の修練をしに来ていますから、出来る最大限の修練をしました。

そして、心を知る為に出来るサポートを精一杯しました。



そして、この10日でまた大きく“知る”ことが進みました。


僕にとってはこの“知る”ことが何より深い充足なんです。




まだまだ日本には戻りませんが、

ヨーガの実践に取り組む練習者や、仏教瞑想に励んでいる練習者にとって大きなお手伝いが出来るお話が出来そうです。


そんな日が来るのをとっても楽しみに過ごしたいと思います。



と、
山の瞑想場での中身の話に入る前に、
今日のブログは終わりです。



そして、
最後に僕のこの瞑想場に対する考えを書いておきます。



厳しい修練を積んでいる最中の修行者は、きっと「あそこはダメだ!ただの観光地みたいなものだ。」と言うかもしれません。

でも、
僕も厳しい修練を積んでいる最中の者ですが、こう言わせてもらいます。


『とっても素敵なところですよ🤗
自然に包まれ、果実や野菜がなり、動物と共に暮らす楽園の様な場所です。
何も言わない自由な練習環境ゆえに、怠けたりいつもの暮らしを持ち込んだりする人もいるけど、きっと何かを持ち帰るから大丈夫。
他人の批判をするより自分の観察に捧げよう😊』




さて、
今日は1日移動もなくいられる日で、明日からまた移動の日々に戻ります。

少しだけのんびりしながら続きのブログでも後で書こうと思います。



ありがとうございます。