歴史と文化と和の心♪

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京都発歴史好き薩摩おごじょ緑木の日々是奮闘記!!

歴史と文化と和の心♪-1 訪問ありがとうございます。歴史と文化と和の心♪-1

はじめまして!!

歴史大好きな薩摩おごじょ、緑木ともうします☆

小学時代、タイムリーに関ヶ原合戦400年だったことから、引きずられるように目覚めてしまいました←

日本史を学ぶうち、「本で出てきたあの場所」や「好きなあの方ゆかりの地」をぜひ五感で感じたいという思いから、地味に全国各地の史跡巡りに出かけております(笑)

・・・といっても列島南端の薩摩からなので、参勤交代で出費の激しかった薩摩のお殿様の気持ちが分かる分かる←


そして歴史書で「時空の旅」に出かけることも。

あしからず(何)


ジャンルは戦国&幕末を中心に考古~近現代、寺社仏閣、多ジャンルです。

どうぞよろしくお願いいたしますm(_ _ )m


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歴史と文化と和の心♪-1 過去の史跡巡りレポ(地域別)

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こんばんは‼

・・・何だか気が付いたら大晦日になっておりました(笑)

IMG_tahhh8.jpg

今年の年末年始は鹿児島へは帰らず京都での年越しです☆

・・・と言いますのは、来年3月うちの父が還暦となるため、姉妹3人でサプライズをする予定なのです。

その際帰省しますので、今回はいいかな・・・と←

 

考えてみれば、鹿児島以外での年越しは今回が初めて(福岡時代は帰省してましたので)。

京都のお正月、満喫したいですネ(*´ω`*)

 

 

 

 

さて、色々変化が激しくて慌ただしかった1年ですが、ここでちょっと振り返ってみたいと思います。

 

●1月-免許取得後遠征ドライブ‼〇

前年11月に晴れて免許を取得し、早速調子に乗って鹿児島から熊本へ遠征ドライブ。

絶対車がないと不便なチブサン古墳や

オブサン古墳、

そして田原坂へ。

何とか生きて帰ってこれましたゾ←

 

●2月-関西~鹿児島往復期〇

2月はひたすら関西と鹿児島を行き来しておりました。

・・・そしてピーチの格安ぶりを思い知るという・・・←

 

●3月-念願の京都移住決定〇

京都での仕事が決まり、家探しに(母同行(笑))。

ついでに銀閣寺や南禅寺を巡りました。

そして、鹿児島での生活も残りわずかになった頃、もうそうそう家族でドライブする事も無いからと、両親と高千穂峡ドライブへ繰り出しました!

 

●4月-片道だけの航空券〇

父上に見送られていざ旅立ちの時。

いつも旅に出る時には往復券でしたが、今回は片道だけ。

 

鹿児島を旅立つ前、前職の後輩たちと遊んだり、歴史仲間のイフウさんと史跡巡りに出たり、鹿児島で出会った仲間の掛け替えなさを胸に、京都での成功を誓いました。

そしてスタートした京都生活‼

早速京の桜に圧倒されるのでした(笑)

 

●5月-誕生日に慶喜公のおもてなし(笑)〇

大政奉還150年記念の一環で、慶喜さまが大坂城で外交官たちをもてなした際に出されたデザート(復元)を食すイベントがあり、参加させていただきました☆

奇しくもこの日私の誕生日。慶喜さまにお祝いされている気がして何だか嬉しかったですネ(笑)

 

●6月-幕末の日々〇

梅雨のシーズンなのに余り雨の降らなかった6月。

霊山歴史館木村先生の新選組ツアーや

磯田先生の講演会など、幕末に駆け回りました。

 

●7月-本場の祇園祭〇

人生初の祇園祭を見ました。

流石京都三大祭のひとつ。

地元鹿児島でも祇園祭はありますが、やはりほんまもんは違いますネ・・・。

 

そしてこちらにも参加(笑)

1日で満願達成してしまいましたゾ←

 

●8月-夜散歩にハマってた時期〇

8月は夜散歩を結構してました(笑)

特に鴨川沿いはお気に入り。

夏の風物詩、納涼床も風情がありました。

そして、リアル兄者に拝んでまいりました(笑)

これからほぼ1ヶ月後、うちの本丸に源氏兄弟が来てくれました←

今、第三部隊の隊長で頑張ってくれてます。

 

●9月-今年の運は、ここで使い果たした〇

京都LOFTに、ジンくんとヒジカタくんが‼

しかもクジに当たり、アラサー管理人一緒に写真を撮ってもらいました‼

 

可愛かったー(*‘∀‘)

 

●10月-大政奉還150年‼←(今年のピーク)〇

・・・間違いなく今年のピークは10月でした。

まず平成の大政奉還に立ち会えた事と、

二条城の大政奉還イベントに参加できたことは誠に感無量。

 

更に

名古屋の徳川美術館や

大阪城天守閣

和歌山市立博物館等、推しの為に駆け回り何度も昇天しましたO(:3 )~ ('、3_ヽ)_

特に和歌山市博様、夢のようなひと時をありがとうございました←

 

ちなみに私事ですが、遂に末妹が嫁ぎました( ;∀;)

相手は何と、京都の方(笑)

京都に親戚も出来たので、何とも心強いバックが出来ましたゾ←

 

●11月-阿修羅以来の修羅場〇

話題となった国宝展。

長蛇の列と物凄い観客に揉まれて参りました←

 

ですが、並んだ甲斐あって拝めた、貴重な文化財の数々。

やはり日本史の授業で学んだものを目の当たりにする感動は一入です。

 

●12月-そして今に至る〇

・・・もう今月は完全に映画とか何やらで刀モードでした←

そして鳥羽伏見の戦い150年、関連イベントや史跡巡りに多く繰り出しております。

 

 

 

 

今年はTwitterでの呟きがほぼ主体となってしまいましたが、何とかこのブログも10年目を迎えることが出来ました。

それは、毎回遊びに来てくださる読者の皆様のおかげだと思っております。

 

京都に移住してきてから休日はほぼ史跡巡りやイベントでブログの更新が追い付かず、大変申し訳ない限りなのですが、これからも楽しく、ちょっぴり役立つ歴史情報をお届けして参りたいと思いますので、また来年も遊びに来ていただけたらと思います(*´ω`*)

 

 

2018年が皆様にとって幸多き年となりますよう、京都の地よりお祈り申し上げます。

 

 

 

 

それでは.....

 

 

 

 

良いお年を!

(*‘ω‘ *)

 

 

 

 

こんにちは‼

本日は幕末好きなら是非とも行っておきたい、こちらの史跡をレポして参りたいと思います。

名だたる幕末の志士は通った(?)であろう、島原です(*´ω`*)

こちらの高麗門形式の大門は今からちょうど150年前の慶応3(1867)年に建て替えられたものになります。

島原は幕府公認の遊郭として発展した事はよく知られますが、江戸時代中頃には俳壇が出来るなど、京都の「文化サロン」としての中心的役割を果たしてまいります。

江戸の「吉原」との違いはここでして、島原では身を売ることはなく、芸事を商売道具としていた訳です。

大門を潜ってすぐの所には、現在も営業をしている貴重な「置屋」である、輪違屋があります。

輪違屋は元禄年間の創業と伝わり、太夫や芸妓を抱え、揚屋(料亭・料理屋)や茶屋からの注文に応じて彼女らを派遣しているといいます。

建物は安政4(1857)年再建ということで、新選組や名だたる志士たちが見ていたものと同じ建物を・・・見ている事になりますね・・・O(:3 )~ ('、3_ヽ)_

ちなみに先日の「大政奉還150年幕末サミット」においてとても素敵な胡弓の音色を響かせてくださった如月太夫さんは、こちらの所属だといいますね‼

 

なお、官許により遊宴でのもてなしを公認された女性の最高位を示す「太夫」という言葉は、島原で使われ始めたといいます。

新選組局長近藤勇が「深雪太夫」という女性を妾としたことは有名な話ですがこれはよっぽどの人じゃないと出来なかったわけですね・・・(;^ω^)

さて、その新選組ゆかりの建物がこちら。

「角屋」です。

寛永年間(1624~44)創業と言われる揚屋でして、町屋造ながら数寄屋造、書院造を取り入れた独特の建物となっております。

全国でも珍しい揚屋建築の遺構でして、国の重要文化財に指定されております。

この建物の前に「新選組刀傷の角屋」と刻まれた石碑が建っておりますが、ここで酒に酔った芹沢鴨が鉄扇を持って座敷で暴れ、店に7日間の営業停止を言い渡したという有名な話が残っております(;^ω^)

よくよく見ると・・・、うっすら刀傷?←

また敷地北東角の壁際には「長州藩志士久坂玄瑞の密議の角屋」の碑も建っております。

揚屋では、客の話を口外しないしきたりがあったため、様々な志士たちの密議の場となったといいます。

 

これは新選組と勤王の志士が鉢合わせてトラブルが・・・?

とも思いますが、実際ここでは池田屋事件のような乱闘はなかったといいますね。

一概に「島原」といいますが、この名前は通称でして、正式には「西新屋敷」というそうです。

「島原」の通称はちょうど花街が六条から移転するときの騒動が島原の乱のようであったからとも、廓の構造が島原のキリシタンが立てこもった城郭に似ていたからとも言われるそうです。

 

いずれにせよ、この通称のきっかけがまさかの長崎(島原)であったとは・・・(;´∀`)

当時の島原の乱に対する影響力が窺えます・・・。

丹波口方面の西門は現在は残っておらず、住吉神社と

レリーフが建っております。

敷地はおよそ200m四方の地を占め、四方は堀と塀で囲まれていたそうですね‼

さて島原を後にし、少し歩くと西本願寺にたどり着きます。

西本願寺は慶応元(1865)年、壬生の屯所が手狭となった新選組が2番目の屯所として構えたことで知られますね‼

 

それにしても・・・ホント島原と近い(笑)

こーれは新選組の面々も大金を工面してまで通ってしまうのも頷けます←

なお、伊東甲子太郎や斉藤一らは3日連続島原に入り浸り、近藤を怒らせたこともあるそうです(笑)

西本願寺は元治元(1864)年の禁門の変や慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いによる被災を免れ、江戸時代中頃に築かれた主要の建物はほぼ現存しております。

上記写真の阿弥陀堂や

御影堂

唐門、飛雲閣、北能舞台などの5棟は国宝に、その他本堂・大師堂・能舞台・鐘楼・浴室・玄関の6棟が重要文化財に指定されております。

 

堀川通に面していてその広大な規模に驚きますが、唐門を潜ってからの迫力にも舌を巻きます←

(うわー!これだけ広ければ)

と、新選組はここで大砲の訓練をしようとしますが、西本願寺側の猛烈な拒否にあい、大砲の訓練だけは壬生寺でやっていたそうですネ・・・(;^ω^)

回廊もなかなか立派‼

西本願寺を後にし、京都駅側に下がって以前母上が写メを送ってきたこちらの石碑を見に行ってまいりました(笑)

今年2月、私がまだ鹿児島の実家暮らしの時に両親が京都へ旅行に行ったのですが、泊まったホテルの前にこんな石碑があったよと母上が写メを送ってきたのです(笑)

 

慶応3(1867)年6月、新選組が将軍慶喜直属の軍隊となった最盛期の頃の建物がこちらにあったといわれるそうです。

しかし程なく新選組ら旧幕府勢は鳥羽・伏見の戦いで敗北したのち関東へ下ってゆくため、実際この場所に住んでいたのは半年も満たなかったとか。

 

厳密の場所・規模などは資料が乏しいらしく、要確認ですね!

・・・それにしても・・・

両親が泊まったホテルなかなか立派・・・_(┐「ε:)_

 

こんなホテル私も泊まってみたい・・・(笑)

 

 

 

 

ということで、ほぼほぼ新選組に関する史跡めぐりでしたが、京の街には知られざる幕末史跡がわんさかあるので、これからも精力的に巡ってまいりたいですね!₍₍ ◝('ω'◝) ⁾⁾ ₍₍ (◟'ω')◟ ⁾⁾

 

こんばんは‼

・・・先月は大政奉還150年に伴うイベント目白押しで、休みのたびに駆け回っていたため、10月の日付でこっそりレポをUPさせていただいております←

おかげですっかり国宝展が後回しになってしまいましたが、会期が終盤に近付いているにもかかわらず

物凄い行列でした(笑)

京都国立博物館の開館時間は9:30。

30分前の9:00に到着してこの行列。

 

数年前の阿修羅(展)を超える修羅場でしたぞ・・・←

・・・それでも何とかチケットをGETして、

いざ、国宝展へ‼

・・・中へ入るまで1時間近くはかかりましたが、ずっと止まっているというわけではなく比較的スムーズに進んでいる感じでしたので、そこまで辛くは感じませんでした(流石国立博物館)。

メディア等で話題になっている国宝展ですが、関西での開催は41年ぶり、8週間4期に分かれて実に210点もの国宝が集結する超豪華な展覧会となっております。

何年か前に九州国立博物館でも「国宝展」があったのですが、残念ながらこれ行けなかったので、今度こそはと意気込んでいた次第←

 

人に揉まれながらではありましたが、行けてよかった・・・( ;∀;)

 

さて、今回の国宝展ですが、日本史の教科書、書道、古典の教科書でお馴染みの国宝がごっそり並んでいて歴史好きには堪らん展示でしたね‼

 

数多くの国宝の中でも「仏画」「絵巻物と装飾経」「肖像画」「中世絵画」「近世絵画」「中国絵画」「彫刻」「金工」「陶磁」「染織」「漆工」「書籍」「考古」のジャンルで展示室が分かれており、それぞれ自由に観覧できる形となっておりました(凄い混雑でしたが(;'∀'))

 

考古では昨年出雲を訪れた際に拝見しました荒神谷遺跡の銅剣・銅戈や、加茂岩倉遺跡の銅鐸、そして学生時代によく観に行った福岡市博物館の金印を見ることができました‼(関連して「後漢書」が見れたのも・・・また・・・(感涙))

他にも長野から出土した「仮面の女神」と呼ばれる土偶や大阪市天王寺の威奈大村骨蔵器も印象的でしたね。

・・・考古ジャンルは割合的に福岡から沢山来ていたので、ちょっと嬉しかった・・・←

 

あと、見たくてたまらなかった似絵の代表作「伝源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能像」(藤原隆信画)、意外と大きかったですね‼

普通の掛け軸サイズかと思いきや、めっちゃくちゃデカい(笑)

上から階段を降りる際もう見えていたため、「こ、これかー・・・」と一発で発見いたしましたゾ←

 

デカいと言えば、室町時代の「瓢鯰図」も意外なサイズ。

これは日本史の資料集とかでよくお見掛けしますが、実物はやはり・・・格別です。

個人的に高校時代、歴史能力検定の勉強をしていた際に必死で覚えた「両界曼荼羅図(東寺/平安時代)」「黄不動(平安時代)」「絵因果経(奈良時代)」はホントお目に掛かれて光栄でした(笑)

 

そして‼絵巻物のコーナー。

圧倒的人気の「源氏物語絵巻(平安時代)」は人だかりが凄くて圧死寸前でした_(┐「ε:)_

何とか抜け出した先の展示ケースには、アノ平家納経が‼

端正な文字の中からどことなく儚さを感じるんですよね・・・(´・ω・`)

海に対する信仰厚く海に消えていった平家ゆかりの品、何だか胸に来るものがあります・・・。

 

その他個人的に「古神宝類」、「初音の調度」、狩野永徳の「花鳥図襖」、三筆三蹟の書画等々、語りつくせないくらい見入ってしまった品々多数でした←

↑図録のボリュームでお察しいただけるかと(;^ω^)

400ページ以上ありましたゾ・・・

 

 

今回の国宝展ですが、京都国立博物館開館120年記念とうたっておりますが、同時に今年は国宝制度誕生120年の年でもあるそうです。

今から120年前と言えば明治30(1897)年になりますが、明治維新を迎えてからこの年に至るまで、近代国家に向けて世の中が急速に変わる一方で、数多くの文化財が破却されるという悲劇に見舞われます。

日本を西洋化させる中で、在来の歴史と文化を否定する・・・そんな時期が日本にもあったのです。

この文化財の混乱状況を危惧したフェロノサらお雇い外国人たちが日本人たちに文化財の調査・整理・保護を教え、岡倉天心が中心となって明治21(1888)年、「臨時全国宝物取調局」を発足し、およそ10年近くかけて全国の宝物調査が開始されたといいます。

このような活動もあり、文化財を保護する法律が整えられてゆくのです。

 

私の出身地である鹿児島はモロこの頃文化財を壊しまくってますからね・・・(-_-;)

国宝は太刀1点だけ、廃仏毀釈の時に鹿児島中の寺を破壊したおかげで国宝級の寺宝は失われ、「昔から」の寺院建築はほぼ無きに等しい状況・・・。

 

あの時壊さなければと嘆いていても、後の祭りなんですねー・・・。

本当、そんな土地で育ってきた事もあり、文化財保護の重要性を噛みしめて、色々拝見させていただいております。

 

「国宝」は、国民の共有の財産。

自分の生まれ育った国の歴史や文化を誇り、次世代に伝えてゆく。

これも一つの「バトン」なのかもしれませんね‼(国宝以外の文化財も然り)

人に揉まれますが、これは本当に一見の価値ありです‼

11月26日(日)、まだあと2週間ちょっとありますので、これからの方、ぜひ‼

・・・もれなく風神雷神さんと写真撮れますょ(笑)