伊賀上野城 西大手門 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

日本からの輸出は消費税をはらっても、

後にその税金分は払い戻してもらえる

ので、事実上消費税無しになっていま

す。それがアメリカから言うと、隠れ

関税になっているそうです。

 

前回の続きです。

今回は伊賀上野城の西大手門です。

 

下図A崇廣堂前からC方向です。

通称赤門通りです。

 

現在と下の江戸時代後期の

絵図を重ねた地図です。

外堀南側は488間、堀幅15間

だそうで、15×1.8=27mの

幅の堀がありました。深さは

約5mだそうです。

外堀東西では幅が12間でm

で表すと21.6mでした。

 

外堀の北側は空堀ですが、

南側は低地なので、湧水

や雨水により水が溜まっ

ていました。

明治になり、職を失った

武士がレンコン栽培をし

ていたそうです。

ハスの花が咲くと、奇麗

な風景になっていたと思

います。

 

江戸時代後期の絵図です。

 

明治な館 の北泉邸です。

明治初期建造の初代上野警察署庁舎

であった建物。和洋折衷のモダンな

造りでクギを用いない構造になって

います。国の登録有形文化財の指定

も受けています。内部は非公開です。

 

上図CからD方向は

 

上図CからD方向です。

Cには西大手門跡の辻の碑が

あります。大手門があった所

なので、道があて曲げ構造の

クランクになっています。

D方向をに行くと

 

 

 

西大手門跡の石碑です。

下図D地点(緑印)に

あります。

石碑の右側が幅27mの

外堀でした。

 

大手門は東西ともに同規模の内枡形門で、

正面に3間(幅)×21間(長さ)の渡櫓、

両袖にも3間(幅)×7間(長さ)の多聞

櫓を備えた立派なものでした。なお、西

大手門は左側に門扉があり、東大手門は

右側に門扉がありました。
江戸時代が終焉を迎え明治期になると、

西大手門は米穀取引所の倉庫として使用

されていました。

明治40年(1907)には解体されました。

昭和63年(1988)、門跡に上野市教育

委員会・伊賀文化産業協会によって石碑

が建立されています。

 

西大手門の明治初期古写真です。

 

今回はここまでで、次回から

藤堂氏の本拠地であった津城

の紹介です。

 

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