箕輪城(日本100名城) 4 御前曲輪 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は御前曲輪です。

 

下図⑫の御前曲輪入り口です。

 

御前曲輪解説板です。

本丸の奥にあり、天守曲輪

とも言えるところです。

緑の線に沿って歩きました。

 

滝田義彦氏が描いた長野氏

時代の箕輪城想像図です。

 

搦手口が当時の大手口でした。

大手口前は当時沼地となって

いました。その沼を外堀として

利用していました。

当時の大手門付近には武田軍

が何度も押し寄せていました。

 

御前曲輪内部です。

 

もう一枚の解説板です。

天守閣はなかったようです。

南西角に櫓がありました。

 

Web上にあった西南角の櫓跡

写真をお借りしました。

下図にあるように、ここが天守

代わりの櫓があった所です。

戦いのときに、城主がこの櫓の

上から指揮したと言われます。

 

 

 

古井戸(左)と将士慰霊碑が

あります。

一番左端には戦没者慰霊碑

が半分だけ見えています。

どこの城でも明治維新後の

戦死者が祀られていますね。

 

 

将士慰霊碑です。

この左側に

 

昭和2年に発見された

古井戸です。

 

古井戸です。

 

蝶々がいました。

 

古井戸内部です。

 

古井戸の解説板です。

深さ20mで、底から長野氏の

墓石が多数出ました。

 

1561年に業正が死去すると、

14歳で子の業盛が家督を継

ぎました。業正は臨終に際し

「我が葬儀は不要である。菩

提寺の長年寺に埋め捨てよ。

弔いには墓前に敵兵の首を

ひとつでも多く並べよ。決し

て降伏するべからず。力尽

きなば、城を枕に討ち死にせ

よ。これこそ孝徳と心得るべ

し」と言い残しました。

業正の死を知ると、武田軍は

家臣への調略をはじめました。

1565年頃には箕輪城は孤立

して、1566年武田軍は箕輪城

への総攻撃を仕掛け、頼みの

上杉謙信の援軍が間に合わず、

9月下旬に落城し、長野業盛

は御前曲輪の持仏堂で自刃

し、一族郎党も後追い自刃し

ています。

 

古井戸の横で記念撮影しました。

 

御前曲輪西虎口です。

この付近に四脚門があり、

その先に木橋が架かって

いました。

 

西虎口解説板です。

西虎口は裏口で緊急脱出用

だったのでしょう。

 

木橋が架かっていたところです。

下は空堀になっています。

向かい側は通仲曲輪です。

 

⑭のところに行くと堀底へ

下りる道があります。

 

後世に造られた道でしょう。

右にカメラを回すと

 

聖徳太子の石碑があります。

 

奈良の法輪寺は山背大兄王

(聖徳太子の子)ゆかりの地

ですが、昭和36年9月の第

2伊勢湾台風のとき、法綸寺

の築地や金堂が被害を受け

ました。

修復に関東信徒総代(高崎

市)が助成した記念として、

法輪寺に平安時代より伝え

られてきた仏像の聖観音

菩薩像が授与されたので、

その記念の石碑です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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