寛永寺から谷中霊園散歩1 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

毎日UPでブログ

2019年8月に東京に行ったとき、

寛永寺から谷中霊園を散歩しました。

今回は鶯谷駅から寛永寺までです。

 

下図①の所です。

塀の向こう側は寛永寺霊園です。

 

UR山手線鶯谷駅南口で降りて、

赤い線に沿って、現在の寛永寺まで

歩きました。2019年8月9日のことで、

気温が約40度もあり暑いので大変で

した。

 

上図②の所にある徳川4代将軍家綱の

霊廟勅額門です。もと3代将軍家光の、

上野霊廟の勅額門であったものを転用

したものです。

 

霊廟勅額門解説板です。

家綱は父家光の死により、10歳で

将軍となりました。1680年に39歳

死去しました。

霊廟は第二次大戦の空襲で焼失し

ますが、この勅額門と水盤舎のみ

が残りました。水盤舎は門の真後

ろなので見えません。

近づいて、カメラの露出を+2にし

て撮影すると

 

霊廟勅額門です。

 

下図③の辺りです。

寛永寺霊園の中を見たところです。

 

寛永寺霊園の中を見たところです。

 

下図④の所です。

 

先に進むと

 

寛永寺根本中堂が見えました。

進むと

 

根本中堂の周りを周回します。

 

渡廊下の反対側です。

インバウンドの外国人観光客さんが、

暑いので休憩していました。

 

 

 

正面に回り込めました。

この左側には社務所があります。

 

社務所です。

 

根本中堂正面です。

ここが寛永寺本堂ですが、天台宗の場合

は本堂を根本中堂と呼んでいます。

埼玉県川越市の喜多院にあった本地堂

が、明治12年にここへ移築されて、寛永

寺の本堂となりました。

内部撮影禁止です。

上に上がり休憩しました。

 

1868年の明治維新の時、彰義隊が

寛永寺に立てこもり、寛永寺はアー

ムストロング砲によりほとんど焼け

ました。アームストロング砲は炸裂

弾である上に、有効射程距離が長

く約5kmもあり、寛永寺からの攻撃

が届かない、離れた所から攻撃で

きました。

イギリス人のウィリアム・アームスト

ロングが1855年に開発した大砲で、

ライフル銃と同じような構造の、弾丸

を回転させて発射し、命中精度も高

いものでした。

第二次長州征伐と戊辰戦争で使用

されました。江戸幕府もトーマス・

グラバーを介して35門もの多数を

発注しますが、グラバーが引き渡し

を拒絶したために幕府の手に渡り

ませんでした。渡っていたら日本

の歴史は変わっていたでしょう。

西南戦争でも熊本城にアームスト

ロング砲があり、この砲のおかげ

で、熊本城が落城しませんでした。

 

上野戦争で使われたアームストロング砲です。

 

江戸時代の寛永寺本堂は、今の国立東京

博物館の前庭にある噴水の辺りにありまし

た。

 

だいたい赤枠で囲った位置です。

 

左端が根本中堂(本堂)でした。

この浮世絵の右側は下図です。

 

江戸時代の寛永寺です。

 

江戸時代の地図です。(上が北)

上野公園全体がほぼ寛永寺とそ

の小寺(塔頭)の敷地でした。

 

寛永寺のWebページより引用

 

根本中堂正面

さらに離れると

 

寛永寺の表門です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。

希望があれば、相互登録します。

毎日午後8時半頃に更新しています。
「相手わかるように」に設定して読者登録してください。
読者のブログ村・ブログランキングは出来るだけ押しに行きます。

 

Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
 お手数ですが、よろしく。下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ
                                              にほんブログ村 歴史ブログへ

 

                                               ブログランキング・にほんブログ村へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

                                               
                  お願いします。