昨日の続きです。
今回は住吉大社東側の古民家紹介です。
初めは池田家からです。
池田家は旧熊野街道と旧住吉街道が交差する、角地に建つ店舗兼住宅です。
元禄年間に酒造業をはじめ、後に味噌醸造を行ったと伝える家で、池田家は旧
熊野街道に面した土蔵造、2階建で2階に虫籠窓のある池田屋というお店です。
「住之江味噌」の製造元として広く親しまれ ています。御主人さんは御年90歳
で元気な方でした。直接話を聞きましたのでその紹介をします。
お兄さんがいたのですが、大学を出たので、味噌屋を継がずにサラリーマンに
なりました。それで、弟の御主人がこのお店を継ぎました。
池田家です。
屋根の上にある、高灯籠型の置物ですが、
これで有名なお店になっています。
伊勢湾台風で破損したそうで、再建したの
ですが、ご主人は細部の造りが気に入らな
かったので、再度、ご自身でデザインして
建て直したそうです。
現地駅前にあった周辺案内図です。
池田家は池田屋とあり、ピンク枠で囲いました。
宝永年間1707年の古絵図です。池田家は豪邸でした。
元禄時代より池田家は酒造業を営んでいて、
たいそうな大金持ちでした、上の絵図に描か
れた池田家があります。しかし、明治になる
と、大手の酒造メーカーに押され廃業します。
当時の当主が新しい事業に失敗して、現在
のような小さい味噌屋となりました。
池田家の前面の道が熊野街道で、
右端の道が住吉街道です。住吉
街道は古の「しはつ道」ともいわ
れ、住吉津から当時の都である
奈良に通ずる、国際街道でした。
④がしはつ道です。
当時の大和川は東大阪の方に流れていました。
家屋の側面に住ノ江味噌のいわれがあります。
拡大すると
池田家の17代目の池田屋甚兵衛さんが、
明治の初めに住ノ江味噌を製造しました。
明治天皇が亡くなるまで、15年間宮中に
この味噌を献上しました。味噌の名称の
由来は、住吉大社宮司だった、男爵津守
国栄卿の命名です。
「住之江味噌」を献上したときの古文書です。
ここに宝永4年(1707年)の古絵図があります。
絵図の上にある時計は外国製で、かなり古いの
ですが、今でも動いています。
味噌樽です。
いろいろな味噌を販売していますが、
私はゆず味噌を買いました。手に
持っているのがゆず味噌です。
味見をして美味しかったです。
この池田家の先祖は和泉の池田町の出身
なので名字が池田となったそうです。
和泉の池田町の池田寺跡の写真が店内にありました。(ガラス反射で見難いです)
池田家と言えば、信長の重臣だった池田恒興も、和泉の
池田町が家の祖先の地としています。
池田氏のはじめは、景行天皇の後裔が和泉の旧池田村
に居住したことに始まるといいます。その地の豪族として
朝廷から池田首の姓も受けていますが、大化の改新で
豪族勢力が抑えられ、その後池田村は摂関家の荘園と
なり池田荘となります。この池田首の末裔が池田恒興
で 、その子孫が備前岡山・伯耆鳥取両藩主の池田氏と
なります。ただ、池田恒興が子孫という確たる証拠があ
りません。住吉の池田さんも言い伝えによっています。
事実とすれば、ここの池田さんと大名の池田家が遠縁
の関係となりますね。
最後に店を出るときに
これはお店から外を撮影した写真ですが、
引戸の先にある溝に、木造の溝蓋があり
ますが、これが金属製だった時に、踏むと
大きな音が出てうるさかったそうで、特注
で造ってもらったそうです。
この熊野街道の道の向かい側に、花が
咲いていましたので撮影しました。
むくげの花です。
同上
彼岸花です。
きょうはここまでで、明日が最終回です。
読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。
希望があれば、相互登録します。相互アメンバーも募集中です。
毎日午後8時半頃に更新しています。
「相手わかるように」に設定して登録してください。
読者のブログ村・ブログランキングを出来るだけ押しに行きます。
Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
お手数ですが、よろしく。ぽちっと押すだけ