住吉大社の紹介1 歴史など | みどりの木のブログ

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今回から住吉大社の紹介をします。

2018年9月24日に訪問しました。

 

住吉大社

 

古代~平安時代

主祭神の住吉三神は、『古事記』・『日本書紀』に記述された神々です。

この住吉三神が祀られる以前に、ここに大海神社があり、昭和まで続く

津守氏が代々宮司をしていました。現在は神社本庁より宮司が派遣さ

れています。三神生誕の場面では、黄泉国から帰ったイザナギが穢れ

祓いのため禊をすると、綿津見三神(海三神)と筒男三神(津々男?)

が誕生したとし、その筒男三神について『日本書紀』では「是即ち住吉

大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」と記述しています。

 

弥生から古墳時代の大阪です。(水都大阪から引用)

ピンクの丸印が住吉大社です。住吉大社の前身は、

大海神社で、そこが朝廷とのつながりで住吉大社に

なりました。

 

住吉神社周辺の高低差地図です。(国土地理院より引用)

 

現在の住吉大社です。

第1~第3は筒男三神を祀り、第4本宮は神功皇后を祀ります。

すべて西の海方向を向いています。(西向きは珍しい方向です)

 

左が北の現在の地図です。大海神社は左端にあります。

下側が海側になります。

 

現地の案内板です。(左が北)

 

大海神社(この神社も西の海方向を向いています)

江戸時代中期の宝永5年(1708年)の造営です。国宝の

住吉大社本宮本殿(文化7年(1810年)造営)と同様の

住吉造であるが本宮本殿よりも古く、また本宮本殿と同様

に、海の方向(西向)する。屋根は檜皮葺。国の重要文化

財です。

この反対側は

古代は階段の下に砂浜があり、その先は海でした。

 

海幸彦の釣針をなくして困っていた山幸彦が、塩土老翁の助言に従って、

海中の豊玉彦の元を訪れ、豊玉彦の娘である豊玉姫と結婚しています。

そして、豊玉彦の力で魚にささった釣り針を取り戻し、海幸彦に返そうと

しますが、豊玉彦が「潮満玉(しおみつたま)」と「潮乾玉(しおかるたま)」

という満潮と干潮を操作できる宝玉を渡して、兄がまだ怒っているような

ら満潮にして溺れさせ、干潮にして助ける方法を繰り返して、懲らしめて

やりな さいと言いました。山幸彦は宝玉を受け取ると、サメの背中に乗

って兄のいる浜辺へと帰りました。釣針を返したものの海彦の怒りは収

まらず、海幸彦が軍勢を差し向けたので、山幸彦は「潮満玉(しおみつ

たま)」で津波を起こして軍勢を倒し、干潮にして助け海幸彦は謝りまし

た。「潮満玉」は住吉大社に納め、「潮乾玉」は堺の御旅所である宿院

頓宮(ここまでが摂津国)に納めました。山幸彦の子孫が神武天皇で、

日本の天皇家となります。

 

また、神功皇后の朝鮮出兵のとき、住吉神の神託もあって、皇后の

新羅征討が成功したと記述されます。そして、神功皇后摂政元年に、

皇后は大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、さらに

難波へ向かうが船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:

兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸)で占うと、住吉三神が三神の和

魂を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」で、荒魂を

「穴門山田邑の祠」で祀るように託宣を下します。そこで皇后が神

の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになります。通説

ではこの「大津渟中倉之長峡」が住吉大社の地とされ、また、穴門

山田邑の祠(荒魂)が下関の住吉神社とされます。

これをもって住吉大社の成立とされています。

 

御所御前です。(4神殿建造前に、ここにあった大樹にシラサギが飛来)

 

住吉の4神殿が建つ前に、大樹にシラサギが飛来した解説板です。

 

国宝の第一本宮(底筒男命を祀る)です。

 

国宝の第二本宮(中筒男命を祀る)と、

国宝の第三本宮(表筒男命を祀る)は

海に向いて直線状に並びます。

 

国宝の神功皇后を祀る第4本宮です。

 

平安時代には和歌の神としても信仰され、『源氏物語』を始め多く

の物語に描かれ、たびたび貴族の参詣もありました。さらに院政

期には熊野詣の途次で上皇・貴族が参詣しています。1039年

頃には二十二社の1つに位置づけられて、その後摂津国で一宮

となります。

 

中世

鎌倉時代には武家からも崇敬されて、1195年には、源頼朝が

梶原景時を使として住吉社に奉幣、神馬を奉納しています。

 

島津氏の生誕地があります。

 

島津氏発祥地の解説板です。

頼朝の愛人だった丹後の局が、北条政子に追われて、ここに

逃げてきて、生んだ頼朝の子供が島津氏の初代となります。

頼朝はこの子に、薩摩・大隅の2か国を与えたとあります。

 

 

古文書ではこの頃に神仏習合が起こり、また元寇に際しては、

1268~1275年に、叡尊が何度も当社で、異敵降伏の祈祷

を行ないました。

神主の津守氏は1215年以降の、鎌倉時代から南北朝時代

にかけて摂津守に補任され、摂津国における政治的勢力を強

めます。さらに大覚寺統の上北面にも任じられて、大覚寺統の

南朝勢力と政治的な関係を強め、その関係で、南朝2代目の

後村上天皇・長慶天皇が一時期住吉大社に行宮を置いてい

ます。第97代後村上天皇は住吉行宮で亡くなりました。

 

 南朝2代目の後村上天皇です。

 

室町時代にも足利尊氏を始めとする室町幕府将軍から崇敬

され、第8代将軍足利義政は社殿造営を細川勝元に命じて

います。しかし、その後は社勢が衰え、戦国時代には火災で

度々焼失し、社殿の式年遷宮も出来なくなります。

 

近世

 

1594年には、豊臣秀吉の検地により、住吉大社朱印地とし

て住吉郷内に2060石が定められ、1606年には豊臣秀頼

が社殿再建をしました。

 江戸時代には江戸幕府から崇敬され、1614年に徳川家康

から禁制を得たほか、1615年に引き続き朱印地として住吉

郷内2060石が与えられます。遷宮も実施され、1810年に

は、現在の本宮社殿が造営されました。西国の大名も参勤

交代時には住吉社に参詣したほか、松尾芭蕉(1694年参

詣)・井原西鶴(1684年参詣)が参詣して歌を詠んだことや、

大田南畝・滝沢馬琴らの参詣もありました。

 

松尾芭蕉句碑です。

 

芭蕉句碑解説板です。

 

庶民からも信仰を集め、全国各地から奉納された多数の石

燈籠があります。

 

石燈籠の写真です。

 

 

幕末頃の住吉大社です。横に神仏習合の神宮寺があります。

第一本宮だけが塀で囲まれています。

 

明治維新後、社号を「住吉神社」に定め、明治1871年には、

近代社格制度において官幣大社に列します。戦後は1946

年に社号を「住吉大社」に改称します。また神社本庁の別表

神社です。全国の住吉神社約2300社の総本社です。

 

2006年には境内域(住吉大社境内遺跡)での本格的な発掘

調査が初めて実施され、調査地となった旧神宮寺跡の一角か

らは古墳時代末・飛鳥時代~中世頃の多数の遺物が出土し

ています。

 

神仏分離令で廃寺となりました。

 

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