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今日からは越前(福井県)一乗谷の朝倉氏の紹介です。

2018年3月16日に訪問しました。

 

一乗谷の朝倉氏館唐門前です。

以前来た時は門の前に堀は無

かったと思います。元々は堀が

あったのですね。

 

朝倉氏の歴史

但馬には、開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる、

日下部氏が平安時代から起こる武士団を形成し栄えていま

した。朝倉氏は、この日下部氏の分家の一つです。
朝倉氏は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市八鹿町朝倉)が

名字の地です。越前朝倉氏は初めて越前へ入国した朝倉

広景を祖とし、以後朝倉義景まで11代にわたって続きまし

た。日下部を姓(かばね)とし、氏神として赤淵大明神を崇敬

し、三つ盛り木瓜(もっこう)を家紋としました。



南北朝時代
 斯波氏は室町幕府を樹立した足利尊氏一門の有力な一族

で、陸奥国斯波郡を名字の地とします。斯波氏は室町幕府で

細川氏、畠山氏と並ぶ三管領の家柄になりました。建武元年

(1334年)斯波高経は越前の守護に任じられ、これに従って

朝倉広景が延元2年(1337年)に但馬から越前に入国しまし

た。建武新政が瓦解すると、後醍醐天皇は越前に新田義貞を

下し、その後吉野にのがれて南北朝の動乱となりました。その

中で朝倉氏は斯波氏の重臣として活躍し、北朝方として越前

の北部に勢力を広げます。高経と共に新田義貞討伐で戦功

を立てたため、その恩賞として黒丸城を与えられます。広景

は黒丸に居住したことから黒丸右衛門入道と号し、安居(福

井県福井市金屋町)に弘祥寺を建立し北庄神明神社の社殿

を再興したりしています。
広景は1352年2月に98歳という長生きをして没しました。
死後の家督は子の朝倉高景が継ぎました。

 

室町時代前半

 1336年の貞治の変において、高景は室町幕府軍の一員と

なり北朝方として、主家であった斯波高経に反旗を翻します。
高景は杣山城を攻め、その功績により、室町幕府第2代将軍・

足利義詮から越前宇坂荘、棗荘、東郷荘、坂南本郷、河南下

郷、木部島、中野郷など7ヶ所の地頭職を賜って基盤とします。

それが越前朝倉氏発展の基盤でした。

斯波氏が越前守護に復帰すると帰参します。既に越前に勢力

を築いていた朝倉氏の存在を斯波氏も無視する事は出来ず、

室町時代に入ると、甲斐氏・織田氏(織田一族発祥地は越前

国織田荘で信長の先祖)とともに守護代に任ぜられるように

なります。

 

室町時代後期

1467~77年に応仁の乱がおこり、朝倉孝景(英林孝景)は

守護代の甲斐常治とともに、主である斯波義敏と対立して、

長禄合戦を引き起こします。足利将軍家の家督争いなどから

発展した応仁の乱では、山名宗全率いる西軍から細川勝元

率いる東軍に寝返えります。越前では西軍の甲斐氏・織田氏

を圧迫して国内をほぼ統一し、足利幕府から斯波氏に代わっ

て越前国守護に取り立てられます。朝倉孝景は分国法である

『朝倉敏景十七ヶ条』を制定し、戦国大名としての朝倉氏初代

となります。
軍記物『朝倉始末記』によると、孝景が1471年に一乗谷城

を築いたとされます。近年では、15世紀前半には朝倉氏が

一乗谷に移っていたとの見解が出されています。それ以前

に朝倉氏が本拠とした黒丸については、坂井郡三宅黒丸(現

・福井市三宅町)説か、足羽郡北庄黒丸(現・福井市中央)説

があります。なので黒丸は北の庄城付近の可能性があります。

 

朝倉氏が栄えた頃の、一乗谷の想像絵図です。(ガイドさんが持っていた絵図です)

下の方に朝倉氏の館跡が描かれていますが、周囲に堀がありますね。

 

現在地にある一乗谷の案内図です。

 

旧主の斯波義敏が越前守護職を回復のため朝倉氏の越前

実効支配について幕府に異議を申し立てると、孝景はかつて

守護であった、斯波義廉の子を鞍谷公方(足利義持の弟、

足利義嗣の子・嗣俊を祖とする。室町将軍家の越前における

分家、鞍谷御所と呼ばれて尊崇を集めていました)の養子とし

て足利義俊と名乗らせた上で、幕府の反対を押し切ってこの

義俊を"傀儡の越前国主"として擁立し、越前守護の斯波氏

に対抗します。後に朝倉氏自体が越前守護に任じられること

となったため、鞍谷公方足利氏は朝倉氏の客将扱いで、朝倉

氏が名実ともに越前守護の戦国大名となります。

 

戦国時代

三好氏の謀反で殺された、室町幕府第13代将軍の足利

義輝の弟である足利義昭が落ち延びて来ると、第11代当

主の朝倉義景はこれを庇護します。だが義昭を擁しての

上洛はせず、代わってそれを実行した尾張国の織田信長

が京都の政権を掌握します。信長に従わなかった義景は

浅井長政らと同盟して信長と戦ったが、1573年(天正元

年)に敗れて一乗谷を焼かれ、義景は自刃。戦国大名と

しての朝倉氏は滅亡します。織田氏本家を圧迫して支配

したのに、分家の織田信長に滅亡させられたのは残念で

した。

 

一乗谷と福井城の位置関係は

グーグル地図より引用しました。

赤枠で囲った右下に一乗谷があります。

福井城は左上にあります。

右下を拡大すると

グーグル地図より引用の一乗谷です。

 

一乗谷周辺の名所が分かる現地観光地図です。

一乗谷部分を拡大すると

一乗谷への入口には、上城戸と下城戸があります。

ここで町を守っていました。城戸内には武士の屋敷と

町人の屋敷が混在していました。

 

城戸内一乗谷の風景です。雪解け水で川の水量が多いです。

 

下の城戸跡を内側から見たところです。

ここには土塁と石垣があります。

 

下の城戸跡を外側から見たところです。(グーグルストリートビューより引用)

土塁の外側に堀(幅約10m)があったのですね。土塁左端は道路により破壊

されています。土塁は高さは約4mので、長さは当時約50mありました。

堀を掘ったときの土砂で土塁を築いています。門は枡形構造でした。

 

解説板です。

 

次に上の城戸です

上の城戸の土塁跡を城戸内側から見たところです。白いのは雪です。

 

上の城戸入口を外側から見たところです。(グーグルストリートビューより引用)

左の戸城入口部分は道路により破壊されています。土塁は当時長さ約105m

で高さ約5mでした。

 

上の城戸もう一方の端は

城戸外から見た、上の城戸のもう一方の端です。(グーグルストリートビューより引用)

土塁の前面に堀があります。

 

今日は此処までです。明日に続きます。

 

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