伊勢大御神下大神宮(福島県南相馬市鹿島区) | ゴシュインデイズ

伊勢大御神下大神宮(福島県南相馬市鹿島区)

伊勢大御神 下大神宮(いせおおみかみ しもだいじんぐう)。



福島県南相馬市鹿島区に鎮座。
御祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。
(※天照大御神の荒御魂)


元享元年(1321年)のご創建。

これを遡ること三年前の文保ニ年(1318年)、のちに陸奥守・鎮守府将軍である北畠顕家の将となる結城宗広が伊勢の内宮に参籠し、満願の日を終え、鈴鹿家幸という人に会います。
その後、結城宗広は伊勢神宮長官に対してこのような申し出がありました。

「鈴鹿氏を奥州に招いて大神宮を分祀したい」と。

長官はこれを了承するわけなんですが。
先ほど結城宗広に会った鈴鹿家幸さん。

実は伊勢神宮長官従三位藤原家行の末子なんですが、内宮外宮の争いに参加し内宮側を扇動した罪に問われて伊勢本家に寄寓していた人なんですね。

例えるなら、すごく良質なワケ有り物件。(←失礼)
戦上手の結城宗広らしい目の付け所なわけであります。


さてさて。
それから数年後、鈴鹿家幸は奥州を巡視して行方郡へと入ります。
この時、南柚木に来たところ、地形が伊勢國五十鈴にたいへん似ているということから、父である長官に許しをもらい、元享元年に天照大御神の御分霊を奉じ従者数名と共にこの地に御神体を安置しました。
それ以後、この地を神並の御森山と称し、鈴鹿家幸の子孫は代々本家祠官を続け現在の宮司さんは二十二代目とのこと。


遷座後は南北朝の動乱や戦国時代の合戦などにより、宮は崩壊。
しかし、江戸時代に入り、相馬中村藩第三代藩主・相馬忠胤公の頃に吉田神祇官により再興された。
このことから、吉田卜部朝臣兼連卿による分祀とも言われているそう。


その後、元禄三年(1690年)に相馬中村藩第五代藩主・相馬昌胤公が当社に詣でた際、

「この社は吉田神祇官が分祀した社か?」

と問われ、それに対し伊勢守は、




と答える。
しかし相馬昌胤はこう返します。

「 (吉田神祇官が造ったにしては) 造りが甚だ粗末である。」

と。
そして相馬昌胤公は公命により南部材を下賜し、再建をさせたとのこと。


吉田神道を深く崇拝した相馬昌胤公らしいエピソードですね。
ちなみに、吉田神道造りの社殿で有名な相馬市の都玉神社を造営したのも相馬昌胤公だったりします。




【 一の鳥居 】
石造りの神明鳥居。
両サイドに社号標が立っています。



【 手水舎 】
一の鳥居をくぐって左側にある手水舎。
自然石を活かした造りでステキですね。


【 ニの鳥居 】
こちらも石造りの神明鳥居。
木々の間に立っております。


【 鳥居右手の木々 】
こちらは南相馬市の天然記念物に指定されているヒイラギの木。
ちなみに奥に見える門は宮司様のご自宅の入り口です。





【 参道 】
木々に囲まれた参道。
木漏れ日が差し込む石段が雰囲気があって良いですよね。


石段を登り切ったところから参道を振り返ったところ。











【 拝殿 】
神明造りの拝殿。
現在のお社は大正十四年に造られたとのこと。
相馬藩主の崇敬があったためか、あちこちに九曜紋がほどこされている。







【 本殿 】
こちらが御本殿。
上大神宮と同様、御祭神が撞賢木厳之御魂天疎向津姫命さまなので千木は内削ぎですね。
御本殿に当たる陽の光のせいか、すごく神々しい雰囲気です。


さてさてさて。
無事にお参りも済みまして、御朱印を頂きます。
先ほどのヒイラギの木の奥、宮司様のご自宅兼社務所にお伺いしてお願いしました。



そして頂いた御朱印がこちら。
「南柚木東太神宮」と墨書されていますが、実際に上大神宮から真東の場所に位置しています。

御朱印を頂いた時に宮司さんから「南相馬にいっぱい人が来るように良いところ伝えてください」と言われたんですが、、、更新がスッカリ遅くなってしましました(´・ω・`)
宮司さんスミマセン……

ただ今回からしばらくは南相馬市の神社を掲載していきますので、ぜひブログをご覧の皆様も南相馬市に行ってみてください。




◆神社への地図






◆神社の情報

伊勢大御神 下大神宮   いせおおみかみ しもだいじんぐう

御祭神:撞賢木厳之御魂天疎向津姫命
社格等:
鎮座地:福島県南相馬市鹿島区南柚木字水神下282