300年前のコンテンツツーリズム | 不況になると口紅が売れる

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遊里、特に幕府公認の遊郭・吉原は、現実世界と異なるルールに基づいたバーチャル空間を江戸の街に現出させました。
花魁たちは「ありんす」などに代表される人工的な言語(廓言葉)を使い、客たちも俗世の身分やしがらみを離れた恋愛演技を強要されました。
吉原もまた、のちに悪所として当局から否定・排除の対象になっていきますが、虚構の力によって現実世界を遊ぶ、というこの姿勢には、今日でも見習うべき部分も多いようです。

虚構というと、今日ではやはり、アニメやマンガなどのエンタテインメント・コンテンツの存在を指摘すべきでしょう。
この虚構(物語)の力で、現実世界を豊かにする方法として、アニメの聖地巡礼(アニメツーリズム、コンテンツツーリズム、とも言われます)が挙げられます。
アニメの舞台となった街を訪ね歩き、仮想と現実とを重ね合わせて楽しもうとするファン行為が広がり、対して地元側も、観光資源としてアニメなどを位置づける動きが出てきています。

「六義園」(東京都文京区)などの日本庭園には、ところどころに古典文学にちなんだメッセージが書かれた石柱が設置されています。
「かたをなみ」というメッセージは、この風景から山部赤人の「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」という歌を連想し、和歌の浦(和歌山県)を見立てなさい、という仕掛けとなっています。
能楽師の安田登氏は、こうした実風景から虚構を見出すそぞろ歩きの楽しみ方は、今日のロールプレイングゲームにも影響を与えたのではないか、と指摘します。
RPGでは、主人公が世界を歩き回り、仕掛けをクリアしてアイテムを手に入れることを繰り返します。
日本のRPGが世界で支持されるのは、日本庭園のウォークスルー的な文化が土台にあるからではないでしょうか、とのことです。

その安田氏によれば、300年前にコンテンツツーリズムを最も大胆かつ綿密に実行したのが俳聖・松尾芭蕉です。
芭蕉といえば「奥の細道」ですが、実はこの紀行文にはところどころに不自然な言動、辻褄の合わない記述、そして芭蕉がでっち上げたとおぼしき虚構が入り混じっています。
さまざまな場所で死者に出会い、怪しくも哀しい体験が語られるのは、能のストーリーを彷彿とさせます。
実は芭蕉の東北への旅は、かつて祟徳院の怨霊を鎮魂するために旅をした西行法師を真似た行為だったのです。
西行に倣い、源義経の鎮魂を果たすために平泉を訪れた芭蕉はそこで、「夏草や兵どもが夢の後」という名句を残しました。
つまり「奥の細道」は、義経の無念の物語を、芭蕉自らの足で歩きながら追体験していく半フィクションであり、単なる旅のドキュメンタリーではなかったのです。


虚構は現実を多層化することができます。
虚構を見立てることで、それまで生きてきた「ベタな現実」との距離を持った、オルタナティブな現実が仮設されるわけです。
それを原動力にしながら、また新たに別の現実をこしらえていく、というのが日本の創造技法「見立て」の素晴らしさなのではないかと思います。
日常の時空間から切り離され、より洗練された超現実を遊ぶことで、リアルが脱構築されていきます。
現実の変革というよりも、認識の組み換えによって現実を別の解釈で捉えなおすという、実に高度な大人の文化技法なのです。