見立ての国① | 不況になると口紅が売れる

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日本は、いうなれば見立ての国でもあります。(なんか、松岡正剛みたいだけど、許して!)

「古事記」において、イザナギとイザナミが「天の御柱」を見立てて、「八尋殿」を建てたという記述があります。

古墳時代に多産された埴輪は、死者の見立てともいわれています。
今日でも祖霊の住処として墓を見立て、さらにその墓を仏壇で見立てながら、わたしたちは先祖とのつながりを保ち続けてきています。

神の依り代やご神木などは、そこに神が降臨した場所という設定です。
人や物に降臨すれば、それらは「よりまし」となります。
奥宮、摂社、末社と祭りの際に担ぎ出される御神輿、神棚、お守り…などは、すべて神の御神体の見立てです。
ついでにいうと、祭の山車は、神の魂が宿る山の見立てです。
こうした祭礼用の造り物を偽物とわかっていても偽物とみなさない態度こそが、見立ての精神といえるでしょう。

「市場」の原型である「市庭」もそうです。
河原や人里離れた何もない場所に「神が降臨した」という設定で、多数の人が集まるアドホックな商業空間を創りだしたのです。
神がおわします関係で、押し売りや強盗、さらには時の権力の介入を拒否しました。
「無縁」というのは、そういう意味です。

日本庭園には「借景」という概念があります。
もっと別の広い空間や、絵画・文学を見立てた風景を、より簡素な仕掛けで表現したものです。
龍安寺や大徳寺などの枯山水石庭が有名どころです。
日本の庭文化では、石組みの工夫によって荒磯やせせらぎ、沼地、山、谷などを表現する慣わしがあり、これを「石を立てる」という言い方をします。
平安末期に著された日本最古の庭園書「作庭記」においては、石組に用いる自然石が、その形(表情)に基づいた意味を有する点が示されています。
遣水(やりみず)の石、野筋の石、三導仏の石など。
これがのちに多様化・分散化し(かぶいたわけです)、単なる石にとんでもない役柄を与える庭園文化を展開させることとなります。