【質問】
小学3年生の子の保護者からの質問です。
子どもは保育園の頃から緘黙症状があり、学校でもほとんど声を出すことができていません。小学校入学時から通級による指導を利用しています。
先日、1学期末の支援会議があり、担任の先生や通級の先生、特別支援教育コーディネーターの先生が参加してくれました。その中でコーディネーターの先生から、次のように言われました。「無理に話せるようになることを目指さなくもいいのでは」
「症状を改善させようとしていることがプレッシャーになっているのでは」
「話せなくても表現の仕方は色々ある」
「色々な障害があっても活躍している人はいる」
「エジソンやアインシュタインがどうとかこうとか」
担任の先生も同じような意見のようで、支援会議全体の雰囲気も「話せなくてもいい」という感じになってしまいました。
「話せなくてもいい」という考え方は、これまでも療育センターなどで助言されることがありました。親である私も、たしかに無理をさせすぎてはいけないと思う一方で、やはり「話せるようになってほしい」という思いもあります。このまま話せない状態のまま大きくなってしまうのかという不安もあります。
どちらの考え方がよいのか、正直分からなくなってしまいました。何か助言をいただけないでしょうか。
【回答】
「話せるようになる」ことを目指しましょう。
以上、回答おわり。
・・・という訳にもいきませんので、詳しく説明しましょう。
まずは重要な前提を確認しておきましょう。
【重要な前提】
・場面緘黙の症状は、治すことができる(最も重要)
・緘黙症状を治すのは、それほど難しいことではない
・「話せない」のは非常に不便であり、本人はとても困っている
質問にあるようなコーディネーターの助言は、どれも的外れで、間違っています。
では1つずつ確認していきましょう。
「無理に話せるようになることを目指さなくもいいのでは」
→「緘黙症状は治せる」ということを知っていれば、こういう助言をするはずがありません。
このコーディネーターは、「緘黙症状は治せる」ことを知らないのでしょう。
また、本人が「話せないで困っている」ことへの理解も足りていません。
教科書の音読や日直などが回ってくる度に、この子は辛い思いをしているはずです。
友だちが楽しくおしゃべりしているところを見ながら、悲しい思いをしているかもしれません。
なぜ無責任に「無理に話せるようになることを目指さなくもいいのでは」と言えるのでしょう。
「症状を改善させようとしていることがプレッシャーになっているのでは」
→「プレッシャー」にはなります。
問題は、それが悪いプレッシャーなのかです。
「プレッシャー」がダメなら、「話せなくても全然困らない」という状態がいいでしょうか。
そうしたらどうなると思いますか?
いつまでも緘黙症状が続くだけです。
中学生になっても、高校生になっても話せない状態が続くかもしれません。
小学4年生で話せるようになるのと、高校生になっても話せないのと、どちらがいいでしょう。
今のうちにちょっと「プレッシャー」を与えて、治してしまう方がいいと思いませんか?
「話せなくても表現の仕方は色々ある」
→表現の仕方はもちろん色々あります。
でもいくら表現の仕方が色々あっても、「話せないこと」が困ることは変わりません。
試しに、その「色々な表現の仕方」を使って一週間生活するところを想像してみてください。
身振りでも筆談でも、スマホでもAIでも何でも使って構いません。
そしたらどうなりますか?
「やっぱり話せないと不便」と思うはずです。
「話せなくても表現の仕方は色々ある」では、解決にはならないのです。
「色々な障害があっても活躍している人はいる」
→これは根本的なところが間違っています。
「色々な障害があっても活躍している人」は、「治らない障害」の話です。
治らない障害だから、「障害があっても活躍」になるのです。
場面緘黙は「治らない障害」ではありません。
治るものなのだから、わざわざ「障害があっても活躍」させる意味がありません。
「緘黙症状を治してから活躍」できるようにしてあげましょう。