【場面緘黙と不登校】⑤両者の決定的な違い | 場面かんもく相談室「いちりづか」

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場面緘黙は「治す」もの、

不登校は「選ぶ」もの

 

前回まで、「場面緘黙」と「不登校」は深い関係があり、背景となる要因も共通するものが多いことを指摘してきました。

今回は反対に、両者の決定的な違いについて説明します。


それは、「ゴールの考え方が異なる」という点です。

これはとても重要な問題なのでしっかり説明しておきましょう。

 
 

 「ゴールの考え方が異なる」とは? 

 

場面緘黙と不登校、それぞれの問題を「解決」したいと誰もが考えます。

では「解決」(=ゴール)とは一体どのような状態でしょうか。

 

場面緘黙は「話せるようになること(緘黙症状の改善)」がゴールです。

 

一方、不登校は違います。

「学校に行けるようになること」だけがゴールではありません。

 

「学校に行かないことを選択すること」

「学校以外の学び方や生活の仕方をすること」

といった解決もあります。

不登校の解決のゴールは多様なのです。

 

なぜこのような違いがあるのでしょうか。

 

 

 場面緘黙は治せる 

 

「話せるようになること」が場面緘黙の解決のゴールだと述べました。

本当に他にゴールはないでしょうか。

 

それを説明する前に、重要な前提を3つ確認しておきましょう。

 

【前提1】緘黙症状は改善させることができる

【前提2】話せないことは非常に不便である

【前提3】当事者の多くは話せるようになりたいと思っている

 

【前提3】に関しては「本人が緘黙症状の改善を望んでいない」ケースも稀にあります。

大人の当事者本人が熟慮の上でそれを強く望むのでしたら、本人の意思を尊重すべきでしょう。

 

ですが「話せるようにならないこと」を望む人が、それほどいるでしょうか。

少なくとも私は、そういう方に会ったことがありません。

(意思が確認できないケースはよくありますが、それは別の問題です)

 

ですのでほとんどの場合、【前提3】も十分に成り立ちます。

 

では、「話せるようになることを目指さない解決」はないでしょうか。

いくつかの考え方を検討していきましょう。


 「困らないように支援をすればよいのでは」 

「周りの支援や、筆談やスマホ、チャットGPTなどの活用で、緘黙症状があっても困らないで生活できるのでは」という考え方もあります。

これは「支援の在り方」としては正しいです。

 

しかし、どんなに支援を充実させても、「困らないで生活できる」ようにはなりません。

声が出せなければ、できないことや困ること、嫌な思いをすることがたくさんあります。

諦めなければならないことばかりです

 

「声を出さない生活」を一週間することを想像してみてください。

実際に試さなくても、いかに困るか分かると思います。

 

 「障害なのだから無理に治そうとしなくてよいのでは」 

「障害なのだから、無理に治そうとせず、できることを増やしていくのがよいのでは」

こういう考え方もあります。

 

一般的な「障害観」としてはこれはあり得ます。

 

ですが場面緘黙は「治らない障害」ではありません

ですので、そもそもこの考え方の対象にはなりません。

 

 「場面緘黙があっても、その人らしく生活できればよいのでは」 

この考え方についてはどうでしょうか。

その人の持てる力を発揮したり、得意なことで活躍するのは素晴らしいことだと私も思います。

 

ですが「得意なことで活躍する」ことは、「場面緘黙を治すこと」とは関係ありません。

 

「場面緘黙の症状があって、話せないが得意なことで活躍する」

「場面緘黙の症状を治して、話せるようになって得意なことで活躍する」

 

どうせ活躍するなら、場面緘黙を治してからの方がよいとは思いませんか?

 

 

 不登校の解決のゴールが多様な理由 

 

場面緘黙には「話せるようになること」というゴールがあることを確認しました。

 

では不登校の解決は「学校に行けるようになること」だけかというと、そうではありません。

「学校に行かないことを選択すること」

「学校以外の学び方や生活の仕方をすること」

といった解決もあります。

 

なぜ不登校の解決には多様なゴールが存在するのでしょうか。

 

それは「学校」は人が育つための「1つの手段」に過ぎないからです。

 

「もともと他にも選択肢がある」と言い換えることもできます。

選択肢が他にもある訳ですから、「多様なゴールが存在する」のは当たり前のことなのです。

 

 普段は、選択肢があることに気付けない 

「1つの手段に過ぎない」といっても、「学校」は最初からデフォルトで設定されています。

ほとんどの人がその手段(学校)を自動的に選択することになりす。

 

「あなたは学校に通うことを選択しますか?他の手段にしますか?」とも問われません。

ですので多くの人は「1つの手段に過ぎない」「他に選択肢がある」ことに気付けません

 

不登校というのは「学校に通うかどうか」の手段を選択する機会に巡り会えたとも言えます。

 

 

 両者の違いはどこからくるのか 

 

このような場面緘黙と不登校の決定的な違いが生じる理由は、2つあると私は考えています。

 

1つ目は、「期間の違い」です。

「学校に通う」のは人生の中のほんの一時であす。

学齢期の終わりがくれば不登校は自然と消滅します。

高校卒業まで不登校の状態で過ごしても、そこから先で豊かな社会生活を送ることはできます。

 

ですが場面緘黙は、治さなければ生涯続くものです。

高校卒業まで場面緘黙を治さなければ、自然に話せるようになる可能性は高くないでしょう。

ですから「場面緘黙は治した方がよい」のです。

 

もう1つは、「重要性の違い」です。

「学校」は他にも選択肢がありますが、「話すこと」にはそれと同等の代替手段はありません。

 

「話すこと」はヒトを他の生物から区別する、ヒトにとっての基本的な特性の一つです。

「学校に行けないこと」と比べ、社会的状況で「話せないこと」ははるかに問題が大きいです。

 

 

 まとめ 

ということで、長くなりましたが今回の内容のまとめです。

 

場面緘黙解決のゴールは「話せるようになること」だが、

不登校の解決は多様である

 

「場面緘黙は「治す」もの、不登校は「選ぶ」もの」とでも言えるでしょうか。

大事なことなので、ぜひ覚えておいてください。