皆が求めるキタムラくんを演じ続けるのは疲れるよ。

自分にとって人生最高の喜びは
誰かに必要とされること。
自分の存在を認めてもらえること。
そう思ってきた。

だけど気づいたことがある。
いろんな人から認められ、期待されるのも考えものだな。
力を得たり、名が売れたりすれば傲慢にだってなるし
時として孤立する。

他人からの期待というものが息苦しくもなる。

皆の言うキタムラくんって何だろう。
それは本当に自分なのか。
自分はその期待通りに生きなければならないのか。
こうあるべき、だという言葉を信じなければならないのか。

そもそも他人に期待を寄せる姿って
その人の願望に満ちた虚像ではないのか。

自分は皆の言われた通りには生きることができないよ。

日本人であり
日本社会を生きるなら
ずっと胸に抱き続けてきた疑問を捨てなければならないのか。
それができないから苦しいんだ。

「郷に入っては郷に従う」
それを真っ向から否定するつもりはないさ。
けれど、先人の残した言葉の真理というものを
もしも本当の意味で理解していなかったとしたら。

どんな思考にも、言葉にも、必ず欠点はあるはずだ。
万人に受け入れられるものなど、当てはめられるものなど
無いのが自然なことではないだろうか。

多岐にわたり名を受け継がれる者が偉大だとしても
この世にひとつとして完璧な人なんていない。

だから、あくまでも自分は自分なんだ。

周りが期待してるキタムラくんというのは
演じているにすぎない。

普段、皆からの期待を背負っている自分だけが
キタムラではないんだ。
皆から蔑まれ、理解されず、ただ独りきりでいる自分は
心の中に確かに存在する。
それをずっと感じてきた。
陽と陰、それら2つが作用してこその自分なんだ。

陰の自分を否定され
陽の自分だけ期待されることに憤りを感じる。
この先もずっとこんな苦しみが続くのか。

世の中の常識や価値観に縛られるから
本当に大切なことを見失う。

それを押し付けられることで
この世の中に絶望を感じた人達が一体どれだけいる。
どれだけの者が自らこの世と別れを告げている。

今目の前にある平和というものは
今でも続く多くの犠牲によって支えられている。
無念としか言いようがない人を前にして
これが本当の平和だと言うことができるのか。

それに、犠牲者に投げかけられる言葉は
あまりにも無責任なものが多すぎるよ。

その人は忍耐力がなかったとか、甘いとか。
なぜ別れを告げる前に一言でも相談してくれなかったの、だとか。
考えれば分かることでしょう。
言えなかった。ただそれだけじゃないのか。
口を開けば返ってくるものはお決まりの台詞ばかりなんだから。

ルールや掟は絶対だから
君が苦しんでても、それを乗り越えることが正義なのだと
なぜ自信を持ってそう言えるのか。
その人がどんなに努力をしても
苦しくてしょうがないのだとしたら
本当にそんな言葉が必要なのか。

本当に大切なことは
ルールや人々の常識、想像の枠に
収まりきるものではないはずだ。 

この世の全てを疑いたくなる自分も
本当の自分なんだから。

色んな生き方があったって
いいじゃないか。

耐えることができないくらい
苦しいなら
皆と違う道へ進んだっていいじゃないか。

たとえ期待外れだと言われても
それでいい。

信頼を裏切ったと言われても
それでいい。

自分を偽り続ける果てには
終わりしかない。

たった一度の人生
自分の思った通りに生きてみたい。

たとえクズ呼ばわりされようとも。

今生きているだけで奇跡みたいなんものなんだから
人生遊んでみたっていいじゃないか。

キタムラが失敗したら、笑えばいいさ。

言わんこっちゃない、と。

それでもいいのさ。