にのみやくん、私20歳になったよ、嵐のことを好きになった小学校1年生から、こんなに大きくなったよ。お母さんの振袖を着たの。にのみやくんのうちわと撮ろうとしたけどやめたの。悲しくなりそうだったから。
嵐が活動休止してからだとね、高校生が終わって社会人になって、もう3年目になるよ。自分の人生決めるために歯食いしばって歩いてるよ。
今の私の愛なんて、細雪程度の現れだね。でも消えてくれなくてさ。風が冷たくなるときみを思うよ。暖かくしていてねって。風邪ひいていないかなって。冷たい風は肉体を通り抜けて魂まで届くから。きみに届く凍てつく空気が、少しでも無ければいいなって。そうやって白い息を吐いていた冬だった。今はただ、春のこの気怠い、油断してしまいそうなゆるやかな絶望と、勢いよくひらく生命の輝きとの狭間で、確実に死にたくなっている脳を動かしながら、最期に聞くのはきみの声がいいなんて、馬鹿げた妄想をしています。きもちわるいね。

ああこんなこと言うべきじゃないって分かってるんだけどさ、会いたいよ。会いたいよ、ごめんね、会いたいよ。色んなグループの色んな話題が出ると、どうしてもきみたちのことを思い出してしまう。その度に使い古した毛布をかぶってその中でぽろぽろ泣いてるの。その涙をぬぐってくれるのはきみたちしかいなかったのに。今じゃ誰もいなくなってしまったことが悲しくて、さらに泣くの。きみのことがすきだから、きみが満足している姿を保てていないことがこんなにもかなしい。こんなにもやるせない。誰のせいでもないことが、怒りよりもかなしみを煽る。べつにね、神様にしたいわけじゃなかった。永遠にだってならなくてよかった。ただ、ただきみたちが満足している姿を、満たされている姿を見ることができれば、ただそれだけが幸福だった。それが少しでも長く長くつづいてくれればって。願いって武器にもなるよね。祈りって縄にもなるよね。今ようやくそれがわかりました。
5人という形は、どこか苦しいものだったのですか?
それともアイドルという形が、きみたちのためではなかったのですか?
人生を犠牲にしている(もしくは別の人生があったのかもしれない)感覚が、どうしても拭えませんでしたか?
いままだこんな文章を書いているのは、諦め切れないのは私だけだと思いたくないからです。わたしが救われたいだけの、ひたすらに自己中心的な文学です。これをliteratureと呼んで良いのか分かりませんが、アメリカ文学の先生が、literatureの定義はないのだと高らかに笑いながら言い放っていたので良いものとします。

にのみやくん。きみのことをほんとうに、ほんとうに尊敬しています。きみが、わたしのいちばん星で、ずっとずっとまばゆく瞬いてる。私が懸命に走っている時も、優雅に空を飛んでいる時も、私が海の底で息をひそめている時も、きちんと私のなかにある。目を閉じれば、いつだってきみの声がして、きみが指す方向に道標があって、それを辿って、私の正しい位置を思い出せる。それが私のなかのにのみやくんだよ。もうこの際全部思い通りにならなくても今日よりその先が幸せになればいいやと願う様になってしまったきみの大事な部分は本当はもっとわがままで居続けていいしもっと満たされるべき物だよと、言い続ける人が私だけで有ります様に。だいすきだよ。まだここにいてくれてありがとう。