手術室の前では夏子がひとり立ちつくしていた。薄暗い廊下に沈む彼女の白衣は輪郭をなくして背景に溶け込み、幽遠とした雰囲気を漂わせていた。

僕らの足音に顔をあげはしたが、表情と呼べそうなものが一切そぎ落とされ、見たこともない形相に、僕は思わず肩を揺さぶった。するとようやく「先生を呼んでくる」といって手術室の扉を開けた。

出てきた執刀医は坂本という名で、初めて見る顔だった。幾分白髪の混じった風貌は経験を物語っており、それ自体には安心をおぼえたが、顔に疲労の色が見られないことに恨めしささえ感じた。

「腹膜への転移が見られました。リンパ節転移もあります。こうなると全身に回っている可能性が高く、とても手術で取りきれません。」

覚悟はしていたものの、転移という言葉をはっきりと医師から聞かされると、それはやはり特別な響きであった。

「あとどれくらい生きられるのですか」と僕が聞いた。

「医学的には3カ月。急死する可能性もあります。」うつむき加減ながらもはっきりとした死の宣告を下した。

医学的というのは、それよりも短い余命宣告は医学という学問上存在しないのだな、と僕は勝手に断定した。寿命というものはすでに存在しておらず、いつ死んでもおかしくない状態なのだ。

 

坂本医師と何人かの看護婦に手術台車を押され、父が部屋から運びだされてきた。

力なく横たわる父は、薄く目を開けており、茫洋たる視線を虚空にさまよわせていた。

「全身麻酔のせいで朦朧としていますけど、声をかけてあげて結構ですからね。」と別の看護婦が並んだ僕たち家族に言った。

「パパ、がんばったね、えらかったね。」と母は子をあやすようにベッドにすがりついた。父はああ、とか、うんとか消え入りそうな相槌をうっていたがやがて「今、何時だ?」とかすれた声を絞り出した。

父の問いに母も妹も苦悶の表情をうかべ、しかし誰にも救いをもとめることはかなわず、傍らにいた看護婦たちもこの小さな家族に対して、最早いかなる施しもできないという具合にただ押し黙ったままだった。「何時だ?」という至極日常的な疑問符が今最悪の凶器となって父のまわりにたゆたっていた。

僕は家族から伝えるのが一番いいと思った。家族のほかに一体誰が伝えるというのだろう。おまえはもうすぐ死ぬと、どうして他人が伝えられよう。黙っていたところですぐにわかってしまうのだ。

「11時15分だよ」と僕が言うと父は「そうか」と言って、いまだ焦点が定まらない目から涙をこぼした。

 

 

 

入院費の清算をすませ、ナースステーションに向かった。

ここへ来るのも死亡日以来だ。もうこれが最後になるだろう。

数名の看護婦が待機しており、談笑まじりにも絶えず体をうごかし業務に励んでいた。その中に辰巳さんの姿をみつけた。

今思うと父はとても手術などできる状態ではなかったのだろう。しかしなんとか手術させてやりたいと看護婦や医師の意気込みがあったからこそ、どうにか試みることができたのではないか。働いている辰巳さんを客観的にみているとそんな気がしてならなかった。

辰巳さんが僕を認め「あら」という具合に顔をあげた。

「葬儀もおわり、下で入院費の清算をしてきました。ひと段落というところです。お世話になりました。」

「そう、大変だったわね。」

「入院から2ヵ月もかからなかったから、大変だということもなかったですよ。」

「そうね、残念ね……ごめんなさいね、力足らずで。」

「いいえ、皆さんには感謝しかありません。」

それから二言三言交わすうち、辰巳さんは僕の揺れる視線を感じ取り

「ああ夏子ね。早番でもうあがったわよ。ついさっき。行き違いかしらね。」と言った。

そのやりとりを聞いてか、別の看護婦がせわしなく近づいてきた。

「田岡先生と一緒だったわよ」と言った声色にはあきらかに下卑た好奇心がにじんでいたが、僕は虚を突かれた形になり

「田岡?」思わず聞き返してしまった。

「消化器系の内科の男の先生。つい先日赴任してきたばかりなの。」39歳で独身、と聞きもしないのに付け足した。

辰巳さんは

「何あんた、あんなのが好みなの。この間なんて車か何かのカギを人差し指にさしてくるくるまわしながら歩いていたわよ。」と言い放った。「大丈夫よ、私あんたの顔の方がタイプだから」と僕に鷹揚に笑いかけ、爪楊枝に突き刺した梨をくれた。

 

病棟から外に出ると、駐車場の真ん中にはかわらず真っ赤なベンツが周囲の温度を一身に集めているよう止まっているのが見えた。近づくだけで暑さが増す気がして、なるべく距離を取り、弧を描くように敷地の隅を歩いた。

視界の端に気配を感じ、反射的に目を向けると助手席に人影があることに気づいた。座った顔に惹かれるもの感じ注視すると、それは夏子であった。顔の左半分に影がおちかかり、八月の光に照らされたもう片側との対照が、はっきりとした顔立ちをいっそう強くうつしとっていた。

男が車に近づき、慣れた手つきで運転席のドアを開けた。

瞬間、腕から背中へ、そして首筋へ抜ける肌のざわめきが僕を襲った。ざわめきはすぐに顔から頭へも波打つように伝わり、その場から動けなくさせた。

おそらく、せわしない看護婦の言っていた田岡とかいう医師だろう。嫌味なくらい健康的に焼けた肌をさらし、したり顔で「趣味はテニス」と言い放ちそうな男だった。医師という地位が生んだゆがんだ優越感は、彼の軽薄な風体に良く似合いっていた。まったく王道の悪趣味さだ。

やがて大きな排気音を立てて発進した暑苦しい真っ赤なベンツを、信号の向こう、おおきくカーブする道路の先に消えるまで見つめていた。

消え去ってから暑さがようやく戻ってきて、額に玉を結んだ汗をぬぐった。

歯に挟まった梨をしゃりと噛んで、15分の道のりをまた歩き始めた。

 

<つづく>