高野山に来ています | サイキックちゃんとあきこの神仏に会いに行こう

サイキックちゃんとあきこの神仏に会いに行こう

13歳の神仏が視える、聞こえる男の子、サイキックちゃんのママであるあきこが書いているブログです。

おはようございます。
あきこです。



以下の記事、
わたしは寝る前に更新したつもりが、
なんとアプリに保存されたままになっていました…



きゃー



ちょっと追記しつつ、
今から上げます。





ただ今、高野山の宿坊に泊まっております。




こちら宿坊



一昨日天川村から帰ってきたばかりなのに、
天河大弁財天社の話もまだまともにブログに書いていないというのに…



今回の関西では、
高野山に行きたいなって
ずっと思っていました。



サイキックちゃんは、
空海さんにご縁のある場所に行くと、
必ず
「高野山にも来てね」
と空海さんに言われており、
本人も
「行かなきゃ」
と言っておりました。


冬休みに、夫とサイキックちゃんは
夫の実家に帰っており、
その際に二人で高野山に行こうとしたらしいのですが、電車が止まっていて行けなかったらしいのです。


ちなみに夫の実家は、
高野山と同じ沿線にあり、
義母は、朝からふと思い立つと高野山に行く、心洗われる…とよく言っていました。


義実家は真言宗で、
高野山に代々納骨もしており、
高野山には縁のある家なのです。



わたしは、サイキックちゃんがまだ赤ちゃんの頃、夫に連れてきてもらって、三人で一度だけ高野山に来た事があります。


部屋から



今回は、わたしの母とサイキックちゃんと三人で来ました。



安定の、昨日の朝からの思いつきです。



なんとなく三人で来たかったのです。



わたしは、サイキックちゃんが生まれる前だか、生まれてすぐだかに、母方の祖母に祖母が若い時に高野山で買ったという数珠をもらったんです。
祖母は、高野山に行ったのがとても嬉しかったと話してくれました。



また、わたしの母は、一時期、今は亡き父と車で高野山によく行っていました。



父方の方は、父含め、わたしと血の繋がっている人は皆亡くなっているのですが、母方は、祖母も含め生きており、わたしにとって血縁というのを意識する人々というのが今はそこしかないのです。


本当になんとなくなんですが、
高野山には、
血の繋がっている人と来たい
母と息子と三人で来たいって
思ったんです。



しかし急に決めたので、
高野山に関する前知識は一切無し。



サイキックちゃんは
「奥の院に行きたい」
と言っていましたが、奥の院が何なのか全く知らない状態でした。


最初、日帰りにするつもりだったのですが、たまたま楽天トラベルを見たら当日の宿泊が空いていたので、三人で最近は旅行をしていないし、せっかくだから泊まろうとなりました。



実家から高野山へは、電車を乗り継いで2時間半くらいでしょうか。


極楽寺の駅からケーブルカー



金剛峰寺のすぐ近くの宿坊だったので、荷物を置かせてもらおうと行ったらチェックインさせてくれました。抹茶を振る舞っていただく…


その後、母とサイキックちゃんとは別れて、高野山大師教会・授戒堂にて、「授戒」を受けました。

大師教会




授戒とは阿闍梨様から戒を受ける。
真言密教の「儀式」なんです。



儀式なので、詳しいことは書かないですが、
最初は、
「さすが密教と言うだけあって、神秘的というか、宗教的に非常に効果的な演出だなぁ」
なんて若干うがったことを思っていたあきこですが、本当に素晴らしかったです。



大勢の方と真言を唱え、
阿闍梨様に授けていただく戒を唱える。


最後の阿闍梨様の法話を聞いていて
「ほとけの心で生きていく」
というくだりには涙しました。




個人で来ている人には、
阿闍梨様から「菩薩開牒」というお札が直接頂けます。
(グループで来られている方は代表者さんが受けていました。



一人500円。
30分くらいです。



ぜひ体験していただきたいです。




サイキックちゃんによると、
空海さんとのご縁が繋がるようです。



阿闍梨様の法話を聞きながら、
仏教というのは、
「どう生きるか」
なんだなぁって思いました。



ここへ来る前にある場所で、
わたしは、自分がかつて大好きだった人、
めちゃめちゃ影響も受けた人、
いろんなキッカケを作ってくれた人
けれど自分はそのつもりが無かったのに、
何故かご縁がうまくいかなくなり、
自分自身がものすごく葛藤した…
そういう人達二人に
全く同じ場所で、それぞれにお会いする…ということがありました。



わたしは、その方たちとは、
もう一生お会いすることが
ないのかと思っていたので、
本当に驚きました。



ただ、お会いして、
別に挨拶くらいしか言葉は交わさなかったけれど、いろんなわだかまりが消えたんですよね。
わたしは、人と直接会ったら、ずっとその人に対して批判的に居続けることも、嫌いでい続けることも、悲しみ続けることも、ないというか、出来ないんですよね。



偽善的かもしれないけれど、お会いしたら、元気そうで良かったなって思ったし、一時的にせよ、わたしと関わって下さって、素晴らしい気づきや、影響を与えてくださって有り難いなって思ったんです。



わたしがその人達を好きだったこと、尊敬していたこと、救われたことは事実だし、その思いは、例え今後人生が交わらなかったとしても、持ち続けていいんだよなって思いました。




でも、わたしは、これからは、
自分の好きな人に好かれたり、
認めてもらうことに、
自分の価値を見出すんじゃなくて、
(結局、わたしは、そうなっていたんですよ。ある意味、依存的だったんだなって今なら分かります。
しかも、その人の為になりたい!とかって勝手に思っていた。人の為じゃないよね、自分が何をしたいかなのにね…本当に偽善的でした。)


自分がどう生きているか、
どう生きたいのか
自分が自分を認められるのか、
そちらにちゃんと軸を置こうって決めました。




天河大弁財天社で、宮司さんが
「慢心していないか。
それを人に対して言えるほどの自分であるのか、をよく考える。」
と仰っていました。


また、
「人はうまくいったときは、神仏にありがたい、おかげさまと言えるが、うまくいかないことを含め、どんなこともそう受け止めることが本当なのではないか」

というようなことを仰っていたのが印象に残っていました。


また、今回の授戒での法話でも
「慢心しない」

ということ、

「人はうまくいっているとき、楽しいときは、今回お授けした『菩薩戒牒』に沿って生きようと思えるが、苦しいとき、うまくいかないときにも、これを思い出して、そう生きていくことが出来るか…」

ということを仰っていました。



その二つを自分の指針にしたいなって強く思ったし、今回、これまで興味のなかった仏教というものの入り口に少し触れて、仏教というものが日本において、もっと人に寄り添ったものなんだなっていうことを身をもって実感しました。


どう生きていくかということ、
人間とは?みたいなことに
もっと密接に関わるものなんだなと感じたわけです。



わたし自身は、
煩悩も多いし、
葛藤するし、
清くもなく、 
これまで沢山の罪をおかし、
迷い、惑う人生を送っていたし、
これからもそうなんだと思うので、
仏様の前に立っていいのか…と
思っていました。



でも、仏様の教え、空海さんの教えは決して懲罰的ではありませんでした。


むしろ、高野山にいらして
空海さんは、皆さんのこれまでの罪穢れを落としてくださり、授戒を受けた皆様は、空海様とご縁を頂き、新しく戒を授かった人として、仏様のこころを持って生きていかれるのですよ…と言われて、本当にお優しいなあって思いました。



相変わらず、言葉にするのが下手でもどかしいのですが、わたしにとって、天河大弁財天社から高野山への流れは、自分を見つめ直す旅となりました。



天河大弁財天社にも空海さんは滞在して修行されていたので、たくさんの物が残されています。



だから、わたしは、相変わらず勝手に、空海さんのお導きだと思っています。






精進料理がめちゃくちゃ美味しかった…
サイキックちゃんは、魚が食べられないので、旅館ではほとんど食べないのに、今回は完食…


そして次には、
サイキックちゃんが呼ばれている、
行きたい…と言っていた
奥の院に行ったのですが、
眠気が限界なので、また次書きます。




今から宿坊の朝の勤行に出まーす!


こちら、わたしも献木しました!
頂いた数珠に、奥の院にて、空海さんにエネルギー入れてもらいました。
(サイキックちゃんが取り次いでくれました)



では、よい一日を!