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● カナダ留学 カナダの歴史

こんにちは、菊池百子です。

カナダの歴史
カナダの建国記念日は、1867年7月1日です。

カナダ建国記念前

イギリス・フランスが海外に出て行って植民地争いをしたのは16~17世紀です。

当時の背景としてヨーロッパ列挙による植民地政策が盛んな頃。

カナダもフランスとイギリスでカナダを自分の植民地にしようと覇権を争っていたのでした。

1670年5月に設立された、Hudson's Bay Company (ハドソンズベイカンパニー、HBC) はカナダでの毛皮交易のために設立されたイギリスの会社です。

Hudson's Bay Companyは小売業として現在は、The Bay (ザ・ベイ) というデパートなどを経営しています。

北米最古の企業です。

一足先に、先住民 (First nation、ファーストネーションと言います。)との毛皮交易を始めていたフランスとの植民地争いは北米植民地戦争を引き起こします。

北米植民地戦争はイギリスの勝利で終わり、カナダはイギリスの植民地としてスタートします。

ちなみにこの頃のカナダは、今現在のカナダの姿ではありません。

バンクーバーのある西側での話ではなく東側となります。

今度はお隣、アメリカのことを気にしないとなりません。

アメリカはイギリスから独立しようとしていました。

カナダにいるフランス系住民とアメリカが結託しないよう、フランス系住民の懐柔策をとるべくカトリック信仰やフランス的な慣例を認めたケベック法を1744年制定します。

(本国フランスはアメリカ指示に回っていました。)

そして1766年アメリカがイギリスより独立。

これを受けてイギリスよりだった人達がアメリカより大量にカナダへ流入します。

その為、オタワ川を境界に東側をローワー・カナダ 現在のケベック州、フランス語圏、西側をアッパー・カナダ、現在のオンタリオ州、英語圏とします。

ケベックは、1608年にサミュエル・ド・シャンプレーンが要塞を築きヌーベル・フランス(北米大陸における新フランス)としたので、フランス側から見ると起点のようなものなのです。

その後もアメリカとの国境争いなどもありましたが、西への開拓も進められます。

1867年、イギリス議会で英領北アメリカ法が可決。

カナダはDominion of Canada (ドミニオンカナダ) として、イギリス連邦の下で自治権を有する自治領となったのが、1867年7月1日だったのでした。

<1901~1920年代>

1901年~1910年ですが、一言で表すと、"Growth" (成長期)。

Alberta(アルバータ)州とSaskatchewan (サスカチュワン)州がの2つの州がカナダに加わります。

1903年にはアメリカのアラスカ州との国境に関して一応の決着をつけます。

そして移民政策。カナダの人口政策の為に移民政策は欠かせないものでした。

1911年~1920年は、第一次世界大戦への参加。

その後のヴェルサイユ会議でカナダにはイギリスとは関係なく独立した代表権が与えられます。

第一次世界大戦によって、identity crisis (自分達は何者なのか)に陥ったものの、カナダという国としての意識を高めていきます。

そして1918年女性の選挙権が認められます。

<1921~1940年代>

1921年~1930年代は、”Post War” (戦後)、となります。

第一次世界大戦後となりますがアメリカ同様、ほとんど戦争の影響をカナダは受けずに済みます。

ただ戦争中に感じたidenty crisis (自分達は何者か)の問いかけは続き、イギリスの植民地ということでは同じであったアメリカとも自分達は違うんだという意識を高めていきます。

今でもカナダはその傾向がありますが、アメリカとは反対の政策を取るところがあります。

1920年代を Glorious 20'sと呼び、車などの新しい家電製品の出現、ニューエイジといった文化が生まれます。

農業では小麦などの生産、そして油田発掘などが盛んになります。

この年代に、カナダでは有名な第10代首相 William Lyon Mackenzie Kingがいます。

1931年~1940年代は、景気の良かった1920年代とは打って変わって、1929年に起こった世界大恐慌の影響をカナダもモロに受けます。

Black Thursday、 Tragedy Tuesdayと続き、失業、貧困問題が深刻化していきます。

この時期にsocial welfare (社会保障)の考えが生まれてきます。

<1941~1960年代>

1941年~1950年代は世界的な話となりますが、前の10年の不景気を受けて第二次世界大戦一色となります。

戦後、1949年に10番目の州として、ニューファンドランド州がカナダに加入します。

1951年~1960年代は、第二次世界大戦後のベビーブーム。

1947年から1966年の間に生まれた人をbaby boomerと呼びます。

戦後の経済復興に伴い、Education (教育)、Healthcare (健康保険)、Pension (年金)の今日に及ぶ基盤を築いていきます。

経済の繁栄は、新しい生活のスタイルをもまた作っていきます。

アイスホッケー、アメリカからの影響でロックンロールなどの新しい文化、農業中心の生活から都会型への生活へと変わっていきます。

特に白人の中流階級が都会からその周りの郊外へ住むことをステータスとする、suburban culture (郊外型文化)を作り上げていくのでした。

<1961~1970年代>

1961年~1970年代は、transitional decade (変換期の10年間)と言われています。

世界的にも、cold war (東西冷戦)、Berling wall (ベルリンの壁)の設立、Cuba crisis (キューバ危機)、Vietnam war (ベトナム戦争)と色々起こります。

いろいろな出来事を受けて、Cultural change (文化的価値観の変化)、Social liberation (社会的自由)が新しい価値観を持って来ます。

古き良き、きちんと躾けられる (discipline) 教育から、戦後の甘やかされて育った (spoiled)世代が育ってくる頃だった訳ですが、Hippie (ヒッピー)の出現。

ベトナム戦争が長引いてくることから、against government (反政府運動)、
ビートルズなどの新しい音楽も、music with drug (音楽とドラッグ)、
Black power (黒人パワー)、Feminism movement (女性平等論)新しい動きがぞくぞくと出てきます。

そんな中カナダは、平等 (equal)、差別をなくすことに力を注ぐ方向に行きます。

Pierre Elliott Trudeau (ピエール エリオット トルードー)という政治家が60年代後半に出現しますが、この期間をTrudeaumaniaと呼び、社会的に大きな影響を与えます。

ピエール・トルドーの息子、Justin Trudeau (ジャスティン・トルドー) は2015年より第29代カナダ首相です。

<1971~1980年代>

1960年代後半、1968年よりカナダの首相になった、Pierre Elliott Trudeau (ピエール エリオット トルードー)はフランス系カナダ人の政治家です。

第20代 (1968年~1979年)、第22代 (1980年~1984年) と首相を務めました。

We're free to be ourself. (私達は、自分自身であるべきである。)と、カナダがどうあるべきか、礎を築いた人です。

Bilingualism(英語とフランス語の2ヶ国語をカナダの公用語とすること)
Multiculturalism(多文化主義)
Women's right(女性の権利の向上)

今のカナダを形容する際に、diversity(多様性)などと言われますが、トルードー首相の時に定められ、カナダの歴史の中では重要な人物の1人として挙げられます。

<1981~1990年代>

1980年代で特筆すべきことは、なんといっても1982年にカナダ憲法を制定し、カナダは主権国家となったことです。

そして同じ年にrecession (景気後退)の波にのまれ多くの人が職を失います。

アメリカとのfree trade agreement (自由貿易協定)が結ばれますが、新たなlumber dispute (木材輸出関する問題)がアメリカとの間に起こります。

また今日における移民政策の目的が改めて明確にされたのも80年代です。

難民移民などを受け入れ、人種による差別なく移民を受け入れていく、というものです。


ケベック独立問題<1991~2000年代>
フランス系カナダ人の人達が、カナダからの独立を目指している運動を、"Quebec Referendum" (ケベックリファレンダム、ケベック独立問題)、その一連の動きをQuebec Sovereignty Movement (ケベック主権運動)と言います。

カナダは英語とフランス語の2ヶ国語が公用語です。

またケベック州だけ、ビザの申請基準など全てにおいて若干違うことをご存知でしたでしょうか。

イギリスがフランスとのカナダでの植民地争いに勝利を納め、Anglophone (アングロフォン、英語が母国語の人または国)の国にカナダはなりました。

Francophone (フランコフォン、フランス語を母国語とする人または国)、フランス系の人もフランスに帰った訳ではなく、カナダに残った人も当然ながらいた訳なのでした。

このフランス系の子孫の人達が、ケベックに多く住んでおり、Quebecois (ケベコワ)、ケベック人と呼ばれています。

Quebec Sovereignty Movement (ケベック主権運動)が起こったのは、1960年代となります。

transitional decade (変換期の10年間)といわれる60年代は第二次世界大戦後の復興とあいまり、様々な価値観の変容ももたらしたのでした。

この時代の波を受けて、ケベック州でもQuiet Revolution (静かな革命、フランス語で、La Revolution tranquille) という社会改革が起きます。

長らく保守的、内向的な価値観を持っていたフランス系カナダ人は、近代化を目指し教育の改革、産業化の促進を目指します。

1967年には、Rene Levesqueという政治家が、Sovereignty Associatonという言葉を使います。

これは「主権連合」という意味で、カナダという国には2つの民族 (イギリス系とフランス系)が存在しているのではなく、2つの民族、2つの国家があり、カナダという国はその連合体である、と考えるものです。

そして、1968年には、Party Quebecoisというケベック州のカナダからの独立を目指す政党が結成され、Rene Levesqueが党首となります。

1970年代に入ってもケベック独立運動は続きます。

1977年には、Charter of the French Language (フランス語憲章)が、Party Quebecois (ケベック党)によって、ケベック州において導入されます。

「フランス語はケベック州とその政府、その法における公用語であり、日常の会話、教育、ビジネスに用いられる言語である。」とします。

これは後に最高裁判所において他言語を排し、フランス語のみのを使用を義務付けることはできないとしたものの、その当時は混乱に見舞われます。

フランス語を第一言語としたケベック州では外資系企業は言葉の面で非常に難しく、企業がケベック州から近くのトロントへ拠点を移してしまったりします。

(北米というとカナダ、アメリカ、メキシコ、南米というとチリ、ブラジルなどの国が存在するわけですが、フランス語を母国語とする国は、北米・南米地域にはなく、英語、スペイン語もしくはポルトガル語になります。)

そのため、カナダ最大の都市であったモントリオールは、その座をトロントへ奪われます。

そんな中、ケベックの独立運動は進められ、1980年5月20日に第1回住民投票が行われます。

結果は独立賛成、40.4%、独立反対 59.6%で、ケベックのカナダからの独立は否決されます。

1980年5月20日にケベック州で行われた第1回住民投票で、ケベックのカナダからの独立は否決されたにも関わらず、独立運動は続きます。

1982年にカナダ憲法(The Constitution Act) が公布されます。

この憲法が公布される際、イギリス議会に憲法の承認を請求しイギリスのエリザベス女王が、カナダのオタワにある国会議事堂でカナダ憲法に署名します。

カナダ独自の憲法を持つことによって”イギリスの元植民地だったカナダ”に完全に終わりを告げ、主権国家になるという意味を持ちます。

この憲法にはカナダの全ての州が批准(署名)したのですが、ケベック州だけは批准しませんでした。

ケベック州も批准してくれるように憲法改正をしようとします。

憲法改正内容として、「ケベックを独特の社会と認めること」などケベック州を優遇する内容を盛り込んでいるもので、1987年のミーチレーク協定 (Meech Lake Accord)、1992年のシャーロットタウン協定 (Charlottetown Accord)と2度にわたって、全ての州の承認を得ようとしますが、憲法改正は行われませんでした。

ケベック州を優遇する内容を盛り込んだ憲法改正案も実現しなかったので、ケベック州からしてみると、それだったら自分達で独立しようという気運はますます高まります。

それを受けて、第2回のケベック独立に関する住民投票が行われます。

What?(何を問うたのか?)  -
Do you agree that Quebec should become sovereign after having made a formal offer to Canada for a new economic and political partnership within the scope of the bill resecting the future of Quebec and of the agreement signed on June 12, 1995?

あなたは1995年6月12日に調印した協定とケベックの未来に関する法案の範囲内において新しい経済的、政治的パートナーとして、カナダに正式に申し出た後に、ケベック州が主権者となることを、賛成しますか?

When?(いつ?)  - 1995年10月30日
Where? (どこで?) - ケベック州
Who? (誰が?) - ケベック州の住民
How?(どうやって?) - 投票
Why?(どうして?) - Sovereignty partnershipを提唱したかったから。

今までは、Sovereingty association (主権・連合)を提唱し、2民族2ヶ国でカナダを連合しているとしていましたが、カナダとケベック州という関係においてケベック州の主権を問うovereingty Partnereship (主権・パートナーシップ)だったのでした。

1995年に行われたケベック州がカナダから独立することに対して賛成か反対かの住民投票の結果は以下の通りとなりました。

独立反対 2,362、648 (50.58%)
独立賛成 2,308、360 (49.42%)

投票参加率 4、757、509 (93.52%)
有効投票数 4,671、008 (98.18%)
無効投票数 86,501(1.82%)

僅差でケベック州はカナダにとどまることになります。

この第2回住民投票からおよそ20年が経とうとしていますが、依然ケベック独立運動は存在します。

景気の悪い時に、ケベック独立運動は盛んになると言われています。

実際問題ケベックがカナダから独立したとして、カナダにとってもケベック州にとってもあまりメリットがないように思います。

カナダからしてみると、国が分断されることになるわけで、、、、。

バンクーバーのブリティッシュコロンビア州は、地理的に西側となり、ケベック州は東側となるのですが、その当時、西側では、”ノーモア”というスローガンがありました。

この”ノーモア”には2つの意味があります。

1 No More もうケベック独立運動はたくさんだ。
2 Know More もっと東側のことを知ろう。

カナダはずっと話し合いでこの問題を解決しようとしてきました。
これからも、もちろん話し合いで解決していこうとしていますが、非常に難しい問題となっています。

バンクーバーオリンピックで、男子カナダアイスホッケーチームがアメリカを破って金メダルを取った際には、ケベック州でのアンケートでは、カナダの国民であることを誇りに思う、が9割以上だったそうです。

日系カナダ人の歴史
<日系カナダ人第1世代、一世 (issei) >

カナダへ移民してきた日本人、そしてその子孫、日本に起源をもつカナダ人を日系カナダ人 (Japanese Canadian) と言います。

日系カナダ人の歴史はおよそ100年ちょっと、既に世代は5世代目となっています。

今日、カナダへ移民する日本人と初代の日系移民の方では、移民する理由もだいぶ異なっています。

日系カナダ人の第一世代を一世 (issei) と英語でもそのまま呼ぶこともあります。

一世は、1877年から1928年に移民してきた人達を差します。


当時、アメリカで大陸横断鉄道が完成し、西部開拓が大きく前進します。

その大陸横断鉄道に乗ってやって来た人たちによって、カナダの西部に位置するバンクーバーも1886年から15年間の間に、2,000人の人口から178,000人という急成長を遂げます。

折りしも日本は、1868年に明治維新を迎え、西洋的近代国家に向けての1歩を踏み出すのですが、生活の困窮から海外への移住を考えます。

カナダへの日系移民の第1号は、1877年、永野万蔵 (ながの まんぞう)さんです。

バンクーバーは、Port Moody (ポートムーディ)に到着しました。

一世の多くは、九州または本州の出身で、漁業や農業を営んでいた貧しい農村からでした。

そのほとんどの人は、バンクーバー付近に定住します。

Steveston (スティーブストン) で漁業を、Fraser Valley (フレーザー川)付近で漁業や農業で生計をたてます。

今も夏に日系のお祭りが開かれる、Powell Street (パウエル通り)には日本人街ができていました。

1898年から1901年の3年間の間に新天地を求めて、11,000人もの日本人がカナダへやってきます。

中には季節労働者などもいたのですが、1901年当時、約3分の1の4,738名がカナダに残っていました。

1907年から日本からの移民が年間に150名のみと制限された為、日本人男性が10、日本人女性が1というアンバランスな日系人の人口比率となります。

その為、Picture Bride (写真花嫁) と呼ばれていますが、写真を双方が送り、写真でしか見たことのないカナダにいる日本人男性と結婚するために日本からやってくる花嫁さんがいました。

移民の数を制限されただけでなく、1895年より日系カナダ人は選挙権もありませんでした。

こんな風にして日系カナダ人の歴史は始まります。

<日系カナダ人第2世代、二世>


日本から移民してきた一世よりカナダで生まれた子供達を二世と呼びます。

一世と二世は、辛い差別にあいます。

・選挙権を認めてもらえない。
  例外として第一次世界大戦にカナダ軍兵士として参加した日系カナダ人には選挙権を与えられました。
・職業選択の自由が与えてもらえない。
  専門的職業、公務員、教職に就くことができないと法律によって定められていました。
・白人よりも賃金が安い。
  肉体労働や単純作業にしか就けませんでした。
  日系カナダ人の生計でもあった漁業のライセンスや森林伐採のライセンスなども制限されます。

1920年代、1930年代、世界大恐慌という背景もありますが、それは辛いものでした。

そのせいもあり日系カナダ人同士の助け合いは大変強固なものとなり、日系コミュニティが発達していきます。

バンクーバーはPowell Street(パウエル通り)や Steveston (スティーブストン) に。

BC州内では、Mission (ミッション)、Fraser Valley Villages (フレーザーバレービレッジ)、 Powell River (パウエルリバー)、 Tofino (トッフィーノ)、 Prince Rupert (プリンスルパート) などに。

各所に日系コミニュティは作られ、日本語学校や、お寺、神社、アメリカや日本で学んだ日本人のお医者さんや看護師さんのいる病院などもあったそうです。

その人数は全体で約23,000人、その内およそ半数は子供達でした。

更に一世と二世にとって悪いことに、1941年に第二次世界大戦が始まってしまいます。

この戦争によって、日本とカナダは敵同士になります。

カナダ政府は、日系カナダ人の強制収容 (internment) を、真珠湾攻撃より2ヶ月後、1942年2月24日より開始します。

日系カナダ人は家財没収、立退きを命ぜられます。

日系カナダ人の総数20,881名、内、13,309名はカナダで生まれた日系カナダ人でしたが、何もない未開拓の場所に立てられた強制収容所施設へ連れて行かれます。

第二次世界大戦終了の際には、日本へ帰るか、ロッキー山脈以東へ住むようにと圧力をカナダ政府よりかけられ苦難の日々を送ります。

1949年にやっと日系カナダ人は、カナダでの自由と参政権を取り戻します。

第二次世界大戦の一世、二世が受けた差別の様子、戦争の残した傷跡を描いている映画や小説もあります。

ミリキタニの猫
 
Obasan


<日系カナダ人第3世代、三世>

第二次世界大戦後、1950年代、1960年代に生まれ育った日系カナダ人が三世の世代となります。

三世にしてようやくカナダの社会に日系カナダ人もなじみ、溶け込んでいきます。

これは逆に日系コミュニティの衰退も意味しています。

第二次世界大戦前は、一世、二世の日系カナダ人の9割は、バンクーバー周辺に住んでいました。

戦争中の強制収容所を経て、やっとカナダ人と同様の自由と権利を得た日系カナダ人は、カナダ全土へとそれぞれが移り住み、カナダ人と同じように暮らし、働いていったのでした。

そんな中では、日本の文化の継承や日本語の習得は困難だったのです。

三世が一世と二世とは変わってカナダへ融合していったというデータとして、三世の約75%が日系の人とは結婚していないというものがあります。

また、2006年のカナダの国勢調査において、日系カナダ人の総数は、98、900名。

うち日本に関する血筋のみという人が、56、470名、日本と他の国からの血筋が混ざっての日系カナダ人が42、430名となっています。

<日系カナダ人第4、第5世代>

1967年にカナダの移民法が大きく変わります。

それまでは、どの国から何名まで移民を受け入れることができると割り当て制でした。

条件を満たしていれば誰でもカナダの移民権を取得できるようになりました。

これを受けて日本からカナダへ移住した第4世代、第5世代の日系カナダ人が誕生していきます。

新移民と呼ばれる世代です。

一世がカナダに移住してきた頃の日本と、第4、第5世代が移住してきた頃の日本では日本の事情はだいぶ異なってきています。

第一次世界大戦前、明治維新が始まったばかりの日本は、欧米に遅れをとっており貧しい農村部から新天地を求めてカナダへ一世はやって来ました。

第4・第5世代は高度成長期を迎えた日本で育ち、高等教育を受けているので日本でもカナダでもホワイトカラーの仕事に就くようになります。

少数派となる日系カナダ人ではありますが、約100年前の人種差別などに遭い苦労した一世の人達と比べると第4、第5世代は北米社会において成功していると言えます。

2001年の国勢調査で、カナダの平均所得が$29、769ですが、日系カナダ人の平均所得は$33、857と平均を上回っています。

このように日系カナダ人社会は大きく変わってきていますが、カナダに定着してきています。

<日系カナダ人戦後保障、Redress>

私達は決して、一世や二世の方々のご苦労を忘れてはなりませんし、忘れることもできません。

第二次世界大戦で敵国となってしまった日本の血をひく一世や二世の方々はある日突然、全ての財産をカナダに没収された上に、住む場所も決められ抑留された上に、戦争が終わってもカナダからは何一つ返してもらえませんでした。

それからおよそ30年後、1970年代後半から1980年代にかけて、カナダ政府よりその当時の書類が開示されるにつれ、カナダ政府にこのような間違いをもう起こして欲しくないという願いも込め、戦争中にとった日系カナダ人へのカナダ政府の対応は間違いであったことを認め、日系カナダ人への戦争補償金を交渉する運動が三世を中心に起こります。

その努力が実り、1988年9月22日、Brian Mulroney 当時のカナダの首相は、第二次世界大戦中に日系カナダ人にとったカナダ政府の行いは間違いであったことを認め、1人あたり$21,000の補償金を支払うことを発表しました。

1993年までに生存している戦争被害にあった日系カナダ人約18,000名に保証金は支払われ、1,200万ドルの基金が日系コミュニティに支払われました。

Burnaby (バーナビー)にある日系プレイスも、この時カナダ政府が日系コミュニティへの基金の一部で建てられています。

日系プレース

日系プレース 2

カナダ政府への交渉が実るまでに、様々な人の努力がありました。

特に、日系三世で、National Association of Japanese Canadians (NAJC)の会長である、Arthur Kazumi Mikiさん (Art Mikiさんと略されている場合もあります。)の尽力は大きいものとなります。

バンクーバーで生まれた彼は、祖父母、両親と戦争のために、マニトバ州へ移動を余議失くさせられています。

教師となった彼は、Redress for Japanese Canadians (日系カナダ人の戦争保障金)の為の交渉にも尽力します。

駒形丸事件
カナダ建国初期、移民法も現在のような平等なものとは程遠い時期でした。

駒形丸事件



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