マヌーシフル<マヌーチェフル>(2)

 ペルシャ人について言えば、彼らはこの系譜を否定し、アファリードゥーンの息子たち以外には、彼らを支配した王を知らず、ほかの民族の王を承認しない。彼らは、もしイスラーム以前にほかの血統からの侵入者が彼らの中に入ったとしたら、彼は不当にそのようにしたと考えている。

 ヒシャーム・イブン・ムハンマド(・イブヌル・カルビー)が私に伝えたところによれば、諸王の中でトゥージとサルムが、彼らの弟イーラジを殺してから三百年にわたって地上を支配した。そしてマヌーシフル・イブン・イーラジ・イブン・アファリードゥーンが百二十年間支配した。それからトルコのトゥージの息子の息子がマヌーシフルを襲い、十二年間マヌーシフルをイラクから追放した。次にマヌーシフルがトゥージの息子の息子を追放して彼の支配を回復し、さらに二十八年間支配した。

 マヌーシフルは公正で寛大であったと伝えられている。彼は塹壕を掘削し、戦争の武器を収集し、ディフカーン(代官)制度を確立して、ディフカーンを各村落に配置、その住民を彼の財産・奴隷とし、彼らに服従の衣を着せて彼に服従するように命じた最初の人だった。

 預言者ムーサは、彼の支配の六十年目に出現したと伝えられている。ヒシャームではないほかの学者によれば、マヌーシフルは、王となり王冠を載せられた載冠式の日、「我らは我らの軍勢の戦闘力を強化し、我らの父祖のために復讐を誓い、敵を我らの地から追放しよう」、と演説したと伝えられている。それから彼は、彼の祖父イーラジ・イブン・アファリードゥーンの血の復讐を果たすことを目指して、トルコの地に進軍した。彼はトゥージ・イブン・アファリードゥーンと、その兄弟のサルムを殺し復讐を果たして帰還した。

 彼(ヒシャームではないほかの学者)は、フラースィヤーブ(アフラースィヤーブ)・イブン・ファシャンジ・イブン・ルスタム・イブン・トゥルク――トルコ人はこの子孫と主張する――・イブン・シャフラースブ――あるいはほかの者はアルシャースブの息子と言う――・イブン・トゥージ・イブン・アファリードゥーン王にも言及した。ファシャンクはファシャンジ・イブン・ザーシャミーンとも呼ばれる。

 (トルコ王)フラースィヤーブは、マヌーシフルがトゥージとサルムを殺してからマヌーシフルと六十年間戦闘を続け、マヌーシフルをタバリスタンで包囲した。それからマヌーシフルとフラースィヤーブは、アリシュシバティール――しばしば名前を短縮してイーラシュと呼ばれる――という名の、マヌーシフルの戦士が放った矢が到達する距離に、二つの王国の間の境界を設定する協定を結んだ。彼の矢が放たれた場所から、トルコの地に隣接する落下地点が彼らの間の境界で、双方ともそれを越えてはならなかった。アリシュシバティールは、彼の弓で矢を引きそしてそれを放った。彼は強大な力を授けられていたので、彼の射撃はタバリスタンからバルフ(オクサス、アムダリア)川にまで到達した。矢はそこに落下したので、バルフ川がトルコ人とトゥージの子孫と、イーラジの子孫とペルシャの地の間の境界となった。このようにして、アリシュシバティールの一撃により、フラースィヤーブとマヌーシフルの間の戦闘は終結した。