画像で辿る原理主義の源流(25)

 アラブ諸国のイデオロギーをイスラーム原理主義に急転換させた事件は、クトゥブが絞首刑台に登ってから約1年後に起きた。

 1967年5月、ナセル・エジプト大統領は、イギリス・フランス・イスラエル三国によるシナイ半島侵略(1956年)後、そこに駐留していた国連平和維持軍を追放した。また紅海からアカバ湾への入り口、ティラン海峡を封鎖、イスラエル船と戦略物資を積載した船舶の通航を阻止した。

 同時にエジプト軍は、イスラエルとの国境に1,000台の戦車と、10万人の兵力を終結させた。ヨルダン軍は東から、シリア軍は北からイスラエルに迫った。西は地中海である。

 絶体絶命のピンチに陥ったイスラエルは6月5日、先制攻撃に出た。まず空軍がアラブ連合軍の戦車を破壊、IDF(イスラエル国防軍)は、国境を越えてシナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラン高原に侵攻した。戦闘はわずか六日間で終結、このため六日間戦争と呼ばれている。

 この屈辱的な敗北でナセル大統領が標榜するアラブ民族主義、アラブ社会主義は、完全に権威を喪失した。アラブ民族主義は、ほかのアラブ諸国でも敗北したイデオロギーに貶められた。

 代わってイスラーム原理主義、さらに正確に表現するならばクトゥブ主義がアラブ民衆の選択肢となった。クトゥブのイデオロギー書はアラブ諸国で加速度的に普及しただけでなく、イラン、パキスタン、アフガニスタン、インドネシアの諸言語に翻訳された。


写真下、シナイ半島に侵攻したイスラエル軍(Assaf Kutin, State of Israel Government Press Office)。
アラジン3世のバイトル・ヒクマ(知恵の館)-Six-day War

























アラジン3世のバイトル・ヒクマ(知恵の館)-Six-day War