「小説家になろうって考えてる人が、深い考え持ってへんかったら、あかんやんか。ほんでもその顔見てたら、大丈夫やなあ。あんたは深い考えを持ってる。その深さが、あんたを男らしく見せてるんや」と言って、おばさんは何度か頷いている。
精一も同じように頷いていた。そういう話は、彼にはとても興味のある話だからだ。彼は年若い頃から、人間の深さとは何やろうと考えてきたのだ。そこで彼は、
「深い考えって何でしょうか?」とおばさんに訊ねた。
おばさんは、
「深い考えいうんは、深い考えや。あんた小説家やねんから、それくらいのこと分かるやろう」と簡単に言ってのける。
「いえ、ぼくにはよく分かりません。むしろぼくが小説を書き始めたのは、それが分かりたいためやったと思います」
「そんな深刻に考えたらあかん。どんな物事でも、深刻に考えたら、分かるもんも分からんようになる」
「でも、深い考えいうんを分かろうと思うたら、深刻に考えんとあかんでしょう?」と問うと、おばさんは、
「そうとも限らんよ。物凄い浅いことわざの中に真理があったりもする」と言った。
「どんなことわざですか?」
「下手な考え休むに似たりみたいなもん」
「ああ。しょうもないことをくだくだ考えてるんは、何にもせんでボーっとしてんのとおんなじいうことわざですね。でもそれは考え過ぎるのはあんまりええことないっていう意味だけで、深い考えは意外に浅いところにあるっていうことを言うてるんやないでしょう」
「そんなややこしいことにこだわってるからあかんねんやんか。例えばどんなんあるかなあって思うて、ふと考えついただけのことで、他にもあるかも知れん。ほんでも今は思いつかん。ああ、思いついた。石の上にも三年いうんはどうやろう?」
それも明らかに違うだろうと最初は思ったが、よくよく考えてみると、全く関係がないわけでもないと思い出した。
「三年寝太郎」
「それは昔話の題名ですやん」
「そうやで。ほんでも、その題名には、凄く深い意味があると思えへん?」
「三年ずっと寝っ放しの男やのに、いざ目が覚めたら、突如みんなのためにええ働きをする。寝てるからいうて怠けてるんやあれへんいうことですね。これくらいの余裕をもって人生生きなさいっていう話でしょうか?」
「まあ、そうやね。何事も、あんまりしゃかりきに考えたらあかんっていうことや。時間かけて、深いこと考えてるからいうて、深い人間になるかいうたら、そうでもあれへん。どっちかいうたら、大事なんは余裕やいうことやねえ。そういう余裕が、今のあんたにはちょっと見える。ほんで男らしく見えんねん」
「へえー、そういうことですか。余裕ですね。余裕が大事なんか。ぼく、今、余裕なんかあれへんねんけど……」と言って、精一は焼酎の水割りを飲みながら考えていた。
今の彼は、あちこちキョロキョロして落ち着かない気持ちだ。とても余裕どころではない。大桃さんの言った言葉が気になって仕方がない。
彼女と相談室で抱き合ったことを、理栄に言われたらどうしようと考えていたのだ。最後はキチンと話を詰めることなく、彼女はさっさと去ってしまった。一体どうするつもりなのだろうか? もしあのことを耳にしたら、理栄はどう思うだろうか?
もちろん、精一にはキチンとした言い分がある。彼は好きで大桃さんと抱き合ったわけではない。彼女からの圧力が強くて、どうしても抱き合わざるを得なかったのだ。
けれどもいっぱしの年の男が、女性の圧力が強くて抱き合わざるを得なかったなどと言い訳をして、それですんなり通るだろうか? それに大桃さんは、年は随分上だが、とても魅力的な美人なのだ。好きで抱きついてんやろと、詰め寄られたら、絶対違うとは言い切れない。
確かに、彼女と抱き合っている時、精一はとてもいい気持ちだったのだから。そのことを自分の心に隠すことはできない。勘のいい理栄には、きっとそのことが分かるに違いない。