コリコリ…… 第三十三回 | 中川忠の小説です。

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中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 精一が彼女の前で立ったままじっとしていると、

「いつまでも何してんのん。早く出て行きいや。嫌いな女といつまでも二人きりになってんのん、いややろう?」と強い剣幕だ。

「嫌いやないです」

「ほんだら、好きやのん?」

「はい、人間として好きです」

「女としては嫌いやねんな」

「ぼくには、理栄という、大事な人がおるから……」

「そやから、その大事な人のとこに帰り」

「ほんだら、ぼくらの交際、認めてくれるんですね?」

「はいはい、認めます。そういうことで。ホテルに行けへんねんやったら、わたし、忙しい仕事いっぱい待ってるから、もう出て行くわ。ほんだらね、いつまでもお元気で」と言って、大桃さんは相談室からさっさと姿を消した。

 

四、

 精一は早く理栄に電話をかけたくて仕方がなかった。取り敢えず大桃さんに、二人のお付き合いを認めてもらったことを報告するためだ。

 とはいえ、大桃さんとの会談は、とてつもなく変な後味の残るものだった。大桃さんのような大人の女性が、彼のような子供に本気の愛情を抱くはずがない。わざと冗談であんなことを言って、こちらの気持ちを攪乱する作戦だったのだ。

 そして精一はすっかりその作戦にはまってしまった。大人の女性に、完全にからかわれてしまった。

 とはいえ、本当にからかわれただけなのだろうかという疑いは、いつまでも心から去らなかった。大桃さんが彼のことを好きだと表現したことは、あながち冗談ではなかったのかも知れない。

 それでなかったら、相談室で彼と抱き合ったりするだろうか? そして抱き合った時に感じた彼女の体の頼りなさのようなものは、この気持ちは冗談ではないのよと、彼に訴えかけているようでもあった。

 だとしたら、理栄に対して抱いている嫉妬の感情も、嘘ではないということになる。ということは、彼と大桃さんが抱き合ったことを理栄に言うと脅かしたことも、冗談ではないことになる。だとしたらこれは大変なことだ。

 精一の頭の中には、そのような想念が渦巻いていた。だから早く電話をしたかったのだが、デイケアのスタッフとして働いている理栄は、そんなに早く家に帰ることはできない。

 大桃さんと会談したのは、午後の一時からだった。それから一時間を大幅に過ぎた時間、相談室の中に二人はいのだが、会談が終わって、ああ、疲れたと時計を見た時には、時計はまだ三時前を指していた。まさか三時前には、彼女は家には帰ってはいない。

 デイケアに電話をかけるわけにはいかない。仕事中にプライベートな事柄を話すことを、極力いやがる人だから。

 そこで精一は自転車を走らせて、いつも行っている例のうどん屋まで行った。まだ夕方にもならない早い時間だから、他に客もいなかった。

 カウンター席に座っておばさんの顔を見たら、ふとおばさんのしてくれた話を思い出した。一度結婚した相手が、本当は小説家になりたかった人だったという話だ。それで彼は、ああ、この頃ぼくはあまり小説を書けていないなあと考えたのだ。

 焼酎の水割りを頼んで、まぐろの山かけをあてにして飲んでいた。するとおばさんが、

「あんた、今日、なんか、ええ顔してるやん」と話しかけてきた。

 ええ顔? ええ顔どころか、彼は大桃さんとの会談で疲れ切っていて、ひどい顔をしているとばかり思っていたのだ。

 精一は顎と頬のあたりを片手で撫でながら、

「いい顔してますか?」とオウム返しに訊ねた。

「うん、ええ顔してる。なんか締まってるって感じやなあ。男らしくなった」

「男らしく? ぼくみたいな女々しい世間知らずが男らしいわけないですやん」

「あんた、女々しい世間知らずなんか? そらそうかも知れん。ほんでも、何でもものをはっきり言うて、世間のこと知ってる人やからいうて、男らしいとは限らんで。そんなんは、世間ずれしてるいうだけで、人間の底は浅いんや。ほんとの男らしさいうんは、もっと深いとこにあるもんやねん」

「ぼくは、別に深くもあれへんし……」