心中なんか大嫌い 第一回 | 中川忠の小説です。

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中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

一、

 これは随分昔の話だ。バブルの弾ける直前の話、平成という年号が始まって間もなくの頃の話だ。

 宗近頼造は小さな会社で写植オペレーターの仕事をしていた。この仕事はほとんど人と口をきく必要がないので、彼にとってはお気に入りだった。

 彼は無駄話なら出来るが、仕事の上での会話がからっきし駄目だった。得意先と交渉して自社の有利に事を運ぶというような、営業系の仕事は出来なかった。

 無駄話では饒舌にしゃべるので、周囲の人は彼のことを、しゃべるのが得意な人だと認識してしまう。特に社長は彼に期待をかけて、「今度自社ビルを建てるつもりだが、お前をそこの責任者にしようと考えている」などという恐ろしい宣告をした。

 彼は毎日黙って会社に来て、黙って仕事をして、黙って帰りたいだけだ。もちろん挨拶くらいはするが、それだって必要最小限の挨拶で勘弁して欲しい。

 無駄話が出来るからって、交渉の仕事が出来るわけじゃない。無駄話はプレッシャーがかからないから出来るのであって、プレッシャーのかかる交渉となると、途端に喉に栓を詰められたようになるのだ。

 そんな風に毎日のんびりと写植機のキイを叩いて過ごしていると、ある時課長に「宗近君」と呼ばれた。

 小さな会社だから、課長のいる場所はすぐそばだった。そこに二人の若い女性が畏まって立っている。

「この人たちは今度我が社に新入社員として入って来た人たちだ。事務をやってもらうつもりだが、我が社のように小さな所帯の会社では、事務なら事務だけやったらそれで済むというわけにはいかない。オールマイティーに仕事をこなさなければならない。そこでお二人にはまず写植オペレーターの仕事を覚えてもらいたいと思っている。宗近君、二人の指導係になってはくれまいか?」

 そんなの嫌だった。しかし仮にも上司に向かって「嫌だ」と直截に述べるわけにもいかなかったので、「はあ」と力ない返事をしたまま黙ってその女性二人を眺めていた。

 一人はさほどでもなかったが、もう一人は驚くような美貌だった。美貌ではあったが、彼にはどうも印象がよくない。二人とは入社以来時々顔を合わすことはあったが、美貌の彼女の方はとても怖い顔をして彼を睨む。睨むくせに不意に笑顔になって「宗近さんはベテランの写植オペレーターなんでしょう?」なんて訊ねることもあった。

「ベテランでもないよ」と否定するのだが、

「ベテランですっていう顔をしてるわ、いつも」と気安く口をきいたりもした。

 もう一人の女の子はさっきまで田舎に住んでいたという感じの、純朴な娘さんだった。赤い頬っぺをして宗近の顔をじっと見ている。少し笑ってはいるが、遠慮がちな笑い方だった。顎が反り返るように突き出していて、プライドの高さが伺える。プライドは高いけれども優しさの漂う印象がある。

 純朴な方が柴根友理乃という名前で、美人の方が冷木静美という名前だった。長い年月がたった今でもこの二人のフルネームだけは忘れられない。

 彼は二人の女性新入社員の指導係として任命されたのだが、写植オペレーターの指導はやめて、会社に馴染んでもらうための話し相手という役どころになった。写植オペレーターとしては、宗近自身もたくさんの仕事を抱えていて、他人の指導をする暇など全然なかった。それでなくとも彼は仕事が遅かったので、課長も無理は言わなかった。

 主に話し相手になったのは休みの時間だった。他の社員も含めて数人で食事に行って、そこで雑談をする。雑談なら宗近は得意だから、ペラペラしゃべる。最初は態度が堅かった柴根友理乃の方も、だんだんと言葉数が多くなってきた。

 宗近は本当は芸大に入りたかったのだが、そんな道は人でなしの道だと親に反対されて、芸大行きは諦めた。では就職ということになったが、会社勤めに興味のなかった彼は、どこにも就職出来なかった。それはそれで親にまたこっぴどく叱られた。

 それで半年くらい家でブラブラしていた。彼は絵描きになることを諦めてはいなかった。反対されたのだから、芸大にさえ入らなければそれでいいのだろう、最後にはそんなことを親に毒づきさえした。

 母親がこっそり「一浪して芸大に入るか?」と訊ねたが、彼は「嫌だ」と拒否した。始めに入りたいという気持ちを潰したのだから、これからも息子の気持ちを潰すようなことが起こるのは間違いない。彼は両親を信用していなかった。家でコツコツと絵を描いて、努力を続けていた。