演劇ってなんだ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

アマチュア演劇界隈の人たちと話しているとだんだんわからなくなってくる。

Twitterで、いろんな活動、活躍をしている人たちの話を読むとさらにわからなくなる。

演劇っていうか、演劇を取り巻く環境、かな。

高校演劇と学生演劇とアマチュア演劇とプロの商業演劇。あとは教育や福祉関連の分野における演劇。扱っているのはみな「演劇、お芝居」なんだけど、求められているものや目指しているものがずいぶん違うんだなと思う。

 

高校演劇だって、全国大会を目指すような世界にいる人たちとそうでない人たちでは見えてるものが違う。そもそも全国大会に連なるシステムに加入していない学校もあるし、実力的に関われない学校だってある。そういう中で演劇やってる人たちの意識は、相当違うだろうと思う。見えてる景色も違う。

学生演劇もしかり。ゆるーく集まってなんとなくお芝居っぽいものが作れたらそれでいいよね、という層と、もっとガツガツ作っていこうとしている層、地域や社会に関わっていこうとする層では、取り組むときの意識が違う。

社会人によるアマチュア演劇は、その意識の差が激しいように思う。この場合の「意識」というのは参加している人たちの本気度とも言える。だって、すでに生業を持ち、なんなら家庭を持って、とりあえず手一杯あるいは満たされた状態にいるのに、そこにさらに時間を食う演劇を持ってくるためには、どれくらい関わろうと思っているかが色濃く反映されてしまう。

同じくらいの熱意の人ばかりが集まれればいいんだろうけど、なかなかそれも難しい。

どうしたって取り組み方に濃淡が出てしまう。(これはどのジャンルも同じだと思うけど)

最も可視化されやすいのが、稽古への参加状況。社会人によるアマチュア演劇の場合、みんなそれぞれ仕事や家庭の時間をやりくりして稽古に出てくる。

人によっては演劇が最優先になることもあるし、後回しにされることもある。

複数の人が集まって作る演劇の場合、稽古に出てこない人の存在は非常に大きな問題になる。単純に稽古が遅れるし、全体のクオリティーも上げられない。

アマチュア演劇とはいえ有料での公演を予定している場合、「お金をとって見せられるレベル」に到達することは最低限の目標になるわけだが、このあたりをどれくらい自覚できるかは人によって差があるのだ。

それでも昨今、「なんとしても稽古に出てこい」なんていうことはできないし、出ない人を責めることもできない。でも稽古しなければ上達しないのである。自主練してクオリティーをあげてくる人ばかりではないし。

そのあたりが、商業演劇(要するにプロの演劇)以外の演劇における最大の問題点なんじゃなかろうかと最近よく思う。

アマチュア演劇がどこまでクオリティーを追求するべきか、みたいな。

 

教育や福祉の分野でも演劇的手法が取り入れられることが増えてきたようで、そういうニュースを目にすることも多い。その場合、言い方は悪いがほぼクオリティーは要求されていない。とにかく参加することが、やってみることが大事にされる。

演劇ってとっつきにくいよねと思っている人たちに、気軽に演劇に触れてもらうための入り口作りだったり、ややこしい人間関係をなんとかするためのツールとして演劇的手法を利用してもらうという啓発だったりするからだ。

 

私なんかがこんなこと考えてもしょうがないんだけど、どうしても「お芝居作りましょう」とか「公演打ちましょう」みたいな話になってくると、どうやってキャストやスタッフを確保するか、確保したキャストのモチベーションをどうやって保っていくか、どうやったら稽古場に来てくれるのか、来られない場合はどうしたらいいのか、ということを考えなくてはいけなくなってる。

ものすごく演劇やりたくて万障繰り合わせて稽古場に来る人と、そこまで熱意は持てない人が同じ稽古場に存在するときの埋められない溝みたいなものをひしひしと感じてしまう。

つい、稽古場に来ない人を責めたくなってしまうんだけど、別に「仕事」というわけじゃなし、そこまでの強制力はないという現実の前で、ため息をついてうなだれるしかない現状である。

 

そして、そうまでしてやりたいと思ってしまう演劇って、なんなんだよ、と思う。

思いながら、また次の芝居のことを考えてしまうのである。