「人間を描く」とはどういうことか | 10月の蝉

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作家の渡辺淳一さんが亡くなった。

これが「年をとる」ということなのかなあと最近しみじみ思うのだが、自分が好きだった人、関心を持っていた人が次々にこの世を去っていく。
有名人はその訃報がニュースになるので、よけいにそう思うんだろうけど、子供の頃からテレビで見ていた人、いいなあと思っていた俳優さん、いつも耳にしていた声優さん、好きだった作家さんなどが、どんどん退場していく。

そうやって、「向こうの世界」に知ってる人が移住していくんだな、という考え方をしてみたこともある。私もいずれそっちへ行くんだな、と考えることで死の恐怖をなだめる、というか。

ま、それは世の習いなので、しかたのないことではある。

渡辺さんは「作家として生き残っていくためには己の欲望と好奇心をぎらつかせなければいけない」という信念をお持ちだった。男女の恋愛を通して人間を描く、という手法でたくさんの作品を残している。

私は、渡辺さんの初期の頃の作品が好きだった。
医学の分野を題材にしたもの。賞をとった「光と影」や、「白い宴」「無影燈」「冬の花火」「花埋み」あたりは、夢中になって読んだものだった。
それがいつの間にか、恋愛小説、それも激しい官能表現を含む作品へと移行していった。
そのあたりから私は渡辺さんの作品を読まなくなった。
最近の話題作はまったく読んでいない。読む気になれないのだ。

それは、他の作家でもそうなのだが、あまりに恋愛に特化した作品は読むのがしんどくなってきたせいである。
愛した恋した、好きだ嫌いだ、抱きたい抱かれたい、抱いたらどうだった、抱かれたらどうだった、嫉妬した、束縛した、愛情が反転して憎しみが生まれた、などの顛末が、「だからどうだっていうんだ」という気持ちにつながってしまうのだ。

そういうところに人間性が出る、という考えだったんだろうなあと思う。
私は渡辺作品に出てくる女性の感覚や価値観に共感できたことがなくて、たいていは「ずいぶん男に都合のいい女なんだな」としか思えなかった。
自分がさほど恋愛に重きをおいてなかったからかもしれないが、読んでいるとじれったくなってしまうのだ。
そんな男なんて放り出してしまえばいいのに、とまだ渡辺さんの恋愛モノを読んでいたころにはいつも思っていた。

でも、ずいぶんヒットして売れたということは、共感する人の方が多かったんだろうなあ。

渡辺さんは最近の若い作家が書くものを「人間が描けていない」と批判することが多かったのだそうだ。SFとミステリが嫌いで、その理由も「人間が描けていない」からだったそう。
虚構というか、物語を構築したり、楽しんだりする、という側面には興味がなかったのかなあ。
私小説の流れの方へシフトしていったのは無理もない展開だったのかも。


リンク先をたどっていって見つけた記事では、藤野可織さんが上梓した作品について穂村弘さんと対談されていたのだが、そこでは「恋愛のない世界はパラダイスなのではないか?」という話が展開されていた。
今の若い人にとっての恋愛の比重が軽くなってきているのではないか、とのことだったのだが、私もこの対談で語られている内容にはとても納得できたのだ。

先日も「何歳まで恋をしたいか?」というブログネタで書いたのだが、ここで使っている「恋」という言葉の定義が、もしかしたら旧世代が想定しているものとは少し違ってきているのかもしれないと思った。
私が使っている「恋」という言葉には、性欲から発生した感情はとても少ない。
直接相手に触れるとか、肉体関係を持つといったような関わり方よりは、自分の中でゆらめく感情の方を重視しているのだ。
だから、相手にこちらの気持ちが伝わらなくても構わないし(むしろ伝わらないほうがいいかもしれない)、直接関係を持てなくても構わない(これもまた持てない方がいいかもしれない)。
ただ、自分の中だけで、「いいな」とか「好ましいな」という温かくてやわらかな感情が存在していればそれでいいのだ。そういう対象が存在することを称して「恋をしている」と言いたい。

渡辺さんが思うような人間の様子というのは、愛情とか金銭欲、名誉欲に突き動かされてドロドロとうごめく様子を指していたような気がする。それは確かに、一つの人間の根源的な姿ではあるけれども、今の日本で、特に若い人たちあたりだと、逆にそういう姿の方が非現実的に見えるんじゃないかなあと思う。
渡辺さんが「人間が描けていない」と批判した作品でも、私は十分に「今の人間」の様子が描き出されているように思えるのだ。
つまり、現実の人間の方が、淡白で欲が少ない状態になってしまってるんじゃないか、ということだ。


上の年代の人たちが、今の若者には欲望が少ないと不満に思うのは、自分たちのようにギラギラしていない、というだけのことなんじゃないか。
そういう話はよく聞く。
一方でお坊さんが「煩悩を鎮めて、心穏やかに生きるにはどうしたらいいか」というような本を出していたりするのも面白いなと思う。
ああ、だから、代償行為として、過激で欲望ギラギラの小説が好まれるのかも。
そういうことなのかな。


次のシナリオ教室の課題が「憎しみ」で、ここしばらくは「憎しみ」について考えている。
憎しみというのはとても激しい感情で、今のところ自分の中には見当たらないのが悩みの種である。私は誰かを「憎い」と思うほど、強く他人と関わったことがない。たいてい、憎しみが生まれる前にそこから逃げ出してしまうのだ。
「憎しみ」という感情は、愛情の裏返しであり、強い他人との関わりからしか生まれない。
恋愛の相手を憎むのは、その前に強く愛情を抱いていたからだし、誰かにひどい目に合わされて憎しみの感情を持つのは、その「誰か」になんらかの執着があるからだ。
相手に関心がなく、存在すら認めていなかったら、腹も立たないし憎しみも生まれないだろう。
私が今のところ誰も憎んでいないのは、そこまでひどい目にあったことがないせいもあるだろう。それと、相手を憎むほどにも関心を持っていなかった、ということもあると思う。

つまり、自分の状態の逆を考えれば「憎しみ」という課題のシナリオも書けるんじゃないかしらん。ないものを想像するのは難しいんだけど。ま、そこは頑張りどころではある。