裕さん曰く
「フランスでは全員が出る杭。
打っている暇なんぞだれもない床蝨解決
一番出たやつの勝ち。
森と一緒で小さな杭は朽ちるのみ」

これ、痺れた。
わたしは、最も日本人的タイプの典型のようだ。
絶対、出ない。
だが、「小さな杭は朽ちるのみ」でもない。
森の中で生き続ける。
小さな杭は、地面の下部分が大きい。
根を広く深く張り巡らしている。
ちょっとやそっとでは枯れない。
それは杭ではなく、生きている「木」だからだろうけれど。

上記は裕さんが言いたいことではない(と思う)。
「出る杭」は集団の中での目立ち方、活動の仕方を例えて言っている。
協調、同調、調整、、、、「調」という漢字が多い。
調子を合わせる、ということか。

学校でも校則は、服装、髪型、細部にわたってガチガチに決められている。
規則に反した者は、反逆者と言わんばかりに目をつけられる婚禮準備
悪い芽は、出始めたらすぐに摘まねば、と。

わたしは学校では規則に従っている風で、実は内面は自由にしていた。(半世紀も前の話)
上辺だけの同調。
摩擦が、めんどくさい。
そんな争いに時間やエネルギーを取られるのが嫌だった。
なので、地下に隠れて波風を立てなかった。

そもそも、家庭が波風、強風、台風、嵐の毎日だったので、学校という避難場所があり、そこで寛ぎ楽しんでいた。
今もそうかも知れない。
わたしにとって、家庭は寛ぐためにあるのではなく闘いの場であり、家庭の外にこそ、癒しがあるような感じ。
だが、この感覚は、絶対におかしい。
にもかかわらず、不思議と調整が取れている。

子供や孫たちは、わたしの家庭ではなく、別の家庭。
なので、喜びや楽しみを分けてもらっている。
わたしが闘った家庭から生み出された、一種の戦利品、ご褒美のようなものだ。
異種の人物、異物との複合体である家庭は、常に苦しい闘いを強いられる。
受け入れられなく拒絶反応を示す。一心同体の真逆。
お互い面と向き合わないが、同じ方向に進んでいる。
摩擦や矛盾や未解決事項を抱えながら、進んでいる。
止まらないし、逆行しないだけマシ。
娘一家たちが、わたしの傷を癒してくれる去黑頭

親夫婦は、闘いの連続であるが、現実は絵に描いたような幸せだけが詰まっているわけではないことを示す、見本のようなもの。
ある程度、理想に反する見本があるのも悪くない。
幸せの追求には、「スイカに塩」「ぜんざいに塩昆布」効果となる(はず)。
矛盾を含めて「幸せ」を構成する。
表面上の目に見えるものと、目に見えないものは、同時に存在する。
同じ意義、意味、存在力はあるが、今日はどっちが外に現れているかな?と、常に交代する。
表裏一体になっている。
「幸せと不幸せ」だったり、「善と悪」だったり、シーソーのように、行ったり来たり。
悪は、自分には縁がない、存在しないと思っている人は幸せだ。
では、自分には悪はあると感じている人は、不幸なのか?
だが、自分は悪くないと盲信して進むと、他人を不幸に陥れることがある。
微妙で複雑でデリケートな問題を孕む。