前回の続きですが、茶道会館での茶会での三谷流(宗鎮流)の茶席は、無事終了しました。

 お点前をなさった若い男性は、大寄せ茶会としては珍しく、三碗目まで点てられたのですが、長時間の正座に足が痺れたようで、建水を持ち帰ろうとしても、なかなか立つことが出来ず、悪戦苦闘されていたのはご愛嬌でしたが、お点前そのものは、無難であったと思います。両器、茶碗が並べられて、寄って拝見という段取りになったので、私はお席主に、ちょっとお伺いしてみました。一つは「お流儀では、七事式をおやりになるのか?」ということです。何故、それが気になったかというと、流祖三谷宗鎮は、表千家六代覚々斎原叟の高弟で、原叟四天王の筆頭といわれた人ですが、七事式は、原叟の子、七代如心斎が考案したものです。ですから、その前に枝分かれした三谷流には、七事式はあるのだろうかと思っていたのです。席主のお答えは「やっております。完全にというほどじゃありませんけれど」ということでした。考えてみれば、初代宗鎮は、浅野家に仕えたといっても、京都に在住し、用向きのある時だけ広島に下向したとされますし、二代目以降も、京都が本拠であったようですから、表千家に師への礼を取り続けていたとすれば、七事式を学び行うのも不思議ではありません。そもそも川上不白の江戸千家も、単に「千家流」であって、江戸千家と呼ばれるようになったのは幕末の頃、自称するようになったのは明治以降だろうと思われますし、三谷流も同じで、元々は他称だけだったのかもしれません。もう一つ、席主にお伺いしたのは「良拙という名は、五代宗鎮のことでしょうか?」ということです。何でそんなことをお尋ねしたかというと、私が入手した茶碗に以下のようなものがあるのです。

 花押があります。

 見出し札に「三谷宗鎮良拙自作赤楽茶碗銘塵外」とあります。

 「赤茶碗 塵外ト号ス  自作 良拙 花押」の箱書。

 末宗広先生の「茶人系譜」によると、初代宗鎮は良朴(不倚斎、不易斎)、二代宗鎮は良中(不倚斎)、三代は良叔(不易斎)、四代は良允(不顕斎)、六代は良義(不休斎)とあるのですが、晩年広島に寄寓し、明治四年に歿したという五代不朽斎だけ、名前の記述がありません。それで、この良拙は、五代ではないかと推理したわけです。お答えは「家元代々の名は、いろいろで、一寸覚えていなくて」ということで、明確なお答えはありませんでした。そういえば会記に三代家元を「水庵」と書かれていましたが、末先生の本には、この号はなく「南水」という号が記されています。号や名の伝称は、いろいろ変化して伝わるのは茶道史では珍しいことでもないので、流儀では水庵が伝承されているのでしょう。いずれにせよ、良拙は五代宗鎮だろうという私の推測は、多分正解だろうと思います。

 この茶碗を入手したのは最近で、きっかけは、三谷宗鎮流について、何か情報がないかと、ネットを引いてみたところ、谷端昭夫先生が初代宗鎮について記述されている他は、たいした情報もなかったのですが、宗鎮作ということで、この茶碗がオークションに出ていたのです。広島の古美術証の出品ですし、間違いはなさそうですし、誰も入札せず、メチャクチャに安価なので、つい、イタズラ半分入札したら、そのままま落札してしまいました。手作りにしては上手な薄作りで、悪い茶碗でもないのですが、妻も娘も裏千家で、あまり使い所はないかもしれず、いっそ三谷流に献上しようかとも思いましたが、初対面で、家元引次かどうかもわからない席主に、いきなり茶碗を差し上げますというのも変なことでしょうし、思いとどまりました。まあ三谷流をやっていたらしい高祖父への供養と思って、家にとどめておきましょうか

 ともあれ、三谷流の茶席に初めて参上する機会を作って下さったmotonobv様、本当に有難う御座いました。心より御礼申し上げます。

   萍亭主