朝茶事も無事に終わりましたが、その時の正客が習得されたことののある上田宗箇流について、何かのご縁ですから、ちょっと整理してみたいと思います。

 と言っても、私は上田宗箇流について、何も知るものではありません。「日本の茶家」という昭和58年に出版された本に、同流の当時の家元が書かれた記事を読んだことがあるのと、日本橋(三越か高島屋かで)で、同流の展覧会が開かれたのを見に行った経験があるだけで、だいたい、この流儀の茶席に入った経験すらありません。あるパーティで、来賓の当代家元が壇上でご挨拶をされるのを聞いたことはありますが、勿論、個人的に会話したわけでもありません。ですから、何も書く資格もないのですが、広島を基盤のこの流儀に関して、ご存知の方は案外少ないようなので、整理してみるのもいいかと。ご承知の向きには不要な話となりますが。

 上田宗箇流の流祖、上田重安は、戦国時代の尾張出身で織田信長の重臣丹羽長秀に仕え、数々の武功を挙げ、猛者として知られました。長秀の歿後、豊臣秀吉の臣下とあり、主水正に任官し、越前に領地を与えられ、小さいながら大名になります。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に参加して、関ヶ原には出陣しませんでしたが、北陸で戦闘し、そのため、戦後、領地を没収され、上方に流浪します。この時、剃髪して、宗箇と名乗ったとされます。一時期、阿波の蜂須賀家に招かれて客分となりましたが、その後、遠縁にあたる和歌山の浅野家に仕えることになります。大坂夏の陣で、徳川方に付いた浅野家の先鋒の将として奮戦、講談などで有名な大坂方の猛将塙団右衛門を討ち取るなど、多くの武功を挙げ、徳川家康から賞賛されたといいます。浅野家が和歌山から広島に移転すると、それに従い、安芸と周防の国境付近に、大名並の領地(一万七千石)を与えられ、家老に任じられました。その後、江戸幕府から直臣に招聘されましたが固辞し、代わりに長男を出仕させ、この家は旗本として存続し、広島の家は、次男が継ぎ、代々家老を務め、明治維新後は男爵に任じられました。宗箇は家督を譲ってからは風流三昧に暮らして、江戸初期、三代将軍時代の慶安3年(1650)、米寿の高齢で歿しました。宗箇は、茶の湯を最初は利休に、後に古田織部に学び、早くから茶人として知られました。また、築庭の才能があり、依頼されて、徳島城の庭園(現在国名勝指定)、広島の縮景薗、名古屋城二の丸庭園などを築造したそうです。宗箇は、かなり小柄だが、腕力が強く、一癖ある、ちょっと狷介な人物という私の抱くイメージは、考えてみれば小説「城塞」で司馬遼太郎が描いたのを、そのまま飲み込んでいるだけで、これが実像かどうかは分かりません。宗箇は肖像画も残っていないそうです。展覧会で見たものでは、宗箇自作の茶碗「さても」と茶杓「敵かくれ」で、パンフレットが今見当たらないのですが、これだけは、はっきり覚えています。茶碗は、織部に通じるような豪快な造形で、箆目が強かったと思います。茶杓は、大坂夏の陣で、伏兵として竹藪に潜んでいる時、良い竹を見つけ、いつ敵が来るか、合戦になるかわからぬ状況で、悠々とこの茶杓を削り、この銘をつけた、これはかなり有名な逸話です。

 宗箇流の特徴はなんなのか。家元の記事を読むと、帛紗を右腰に付けるとか、柄杓の持ち方、扱い方に馬術や弓術の手が取り入れられているとかありますが、これは他の武家茶道でもあることで、特段珍しいことではありません。点前が直線的で、外へ外へと動きが繰り返されるという特徴があるといいますが、これはどういうことか、実際に見てみないとわからない。一度、今回の朝茶事に見えたお正客に、見せてもらおうかと思っています。男性と女性で点前礼の仕方が違うともありますが、これも実際に見てみないとピンと来ません。さて、上田宗箇流の歴史と現状ですが、話が長くなったので、続きは次回に。   

   萍亭主