先回の続きですが、三浦乾也は仙台逗留中、軍艦を作っただけではありません。仙台にあった堤焼という窯を、藩の依頼で復興させています。

   堤焼は、起源は元禄頃(17世紀末)といいますが、生活雑器を作っていました。乾也は入門してきた庄司義忠に乾山風陶法を教え、乾の一字を与え、針生乾馬(はりゅうけんば)と名乗らせます。今の堤焼5代目針生乾馬の先祖です。堤焼は、その後種々変遷がありましたが、3代乾馬の頃から、茶器を専門にし裏千家に出入りの窯です。今は乾山写しは焼いていませんが。

   乾也は財政難などの理由で、文久3年(1863)、仙台藩をお払い箱になるのですが、愛着があったのか、その後も仙台藩に関わりを持ち続けます。これが裏目に出て、明治元年、奥羽戦争で朝敵となった仙台藩の内通者と見られ、新政府に江戸で投獄されてしまいます。養子や友人の嘆願で一月半後にやっと(ゴーン氏よりは短いが)釈放されました。

  その後、神奈川県の秦野や埼玉県の飯能に窯を作り指導しますが、いずれも長続きせず、東京に戻り千住で当時建築用に流行しだした煉瓦を焼いたり、輸出用陶器の派手な絵付けをしたり苦闘しますが、明治8年本来の仕事に立ち戻り、向島長命寺内に窯を築き、乾山写しを焼きます。その手腕の老練さが高い評価を得て、乾也焼と呼ばれましたが、それより評判が高かったのが、色彩鮮やかな、珠、根付、帯留め、印籠などの細工物でした。珠は簪などに使われる、乾也珠と呼ばれる大ヒット商品になり、大流行しました。明治22年68歳で死去しました。

   6世乾山を自認しながら、一度も書き銘に乾山銘を用いず、自分の名の書き銘で押し通したところに、私は何となく彼の気概を感じるのですが。骨董屋に乾也の作品はそう沢山出ませんが、出るとこの不況でも結構な値がつくようです。

   ちなみに伯父の井田吉六も力のある陶工だったのでしょう。亀山焼を復興した後、伊勢松坂の有名な学者で素封家の竹川竹斎に招かれ、射和万古(いさわばんこ)の創窯に成功し、函館奉行に招かれ、北海道で初めての陶窯を作ります。これは結局成功しませんでしたが、他にも飯能や各地の窯も指導しています。文久元年70歳で死去。

   三浦乾也については「幕末の鬼才 三浦乾也」という評伝を益井邦夫さんが書いておられ、これを随分参考にさせて頂きました。

   乾也の最期の窯、長命寺の上流すぐ近くにもう一つの窯がありました。それは次回に。

       萍亭主