陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ -2ページ目

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「なんでそんなに世間に対して一方的な置いてけぼり感を持ってるんだ?自分が飛び込んでいかないだけなのに」

 

「自分の心が弱いとどうしても負けを認められないんだよね。でも負けを認めないと人間は成長することができない。だって本当の成長はだいたいそこから始まるんだもん。悔しいけど俺はあのおっさんの言う通りの人間。あのおっさんだから逆に素直に負けを認められた」

 

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私性からはじめる倫理を、真剣に考えたい。

日本では、「法は家庭に入らず」という基本的方針がとられているが、端的に言ってこれは法治国家の否定ではないだろうか。親子愛が「自然」なものである、家庭が自律的に機能するはずだという隠れた前提があるが本当か。
親子愛は、極めて人工的な、役割演技的社会制度である。そもそも人間関係の自然状態が理性的なものであるなら、法など不要なはずである。実の親から虐待を受けた子供を守るのは、強制的に子を親から引き離す「一時保護」であるが、その職権を唯一認められた児相が十分機能していない。
それは少なくとも二つの要因が考えられる。一つは児童福祉司の人数不足。長崎県の例でいえば、相談件数495件、一時保護の必要165件に対して児童福祉司27人、児童心理司14人では全く対応しきれない。二つ目は一時保護の客観的な適用基準の未確立。
悪意に晒される業務は、人間をとことん消耗させる。虐待をしてしまう親に毅然と対応するためには、心身の余裕と、判明な規準を設ける必要がある。子に虐待を受けさせないこと、そして、親に虐待をさせないこと。司法と行政の責任である。

まず、権利概念についておさらいをする。
たしかに権利とは、「端的に認められるべきもの」であり「義務を果たした人だけが認められるもの」というのは誤った権利観である。だが人権にも限界がある。それは他者の権利を侵害しない限りにおいて、という条件であり、いくつかの権利概念は互いに厳しく対立することがある。例えば知る権利とプライバシー権、表現の自由と差別されない権利などである。厳密なことをいえばかなり論理が複雑化するはずであるが、おおよそ「侵害しない限り端的に認められるのが権利」ということになる。
また、学校教育における「子供」の権利については、加えて考えなければならないことがある。子供はまだ十分な判断力を備えていない存在だ、という社会的位置付けである。当然、発達に応じた個人差はあるはずであるが、一律「18歳未満は子供」とみなすことになっている。この点に関して、行為の結果責任が免じられる代わりに自ら行為を判断することが許されない場面があることをうまく説明する必要がある。発達が早熟で実質的に大人と同等の判断力をすでに備えている生徒が「子供扱い」に対して不満を持っている場合、どのような説得ができるか。「現にすでに結果について免責されているのだから甘んじて受け入れるべきだ」というのは不誠実だろう。責任を引き受け罰せられる自由を奪われているのだから。(死刑になりたいから無差別大量殺人を犯した場合、扱いようがない。きわめておぞましい想像だが論理的には可能だ)かといって、免責されていることに居直ればよいともいえない。どうせ大人扱いされないのなら誤った行動を取れば取るほど「支払いの差額分、儲かる」としてふるまわれると指導も何もなくなってしまう。実はきわめて難問であるはずだ。

次に、管理主義的教育について。私は管理主義教育には本当は大きく二つの対象があるのではないかと考えている。それがあたかもひとつであるように語られるのは意識的な操作と、無意識的な混同と、場面によって様々であるが。
先にエピソードを述べる。私は中華料理店でアルバイトをしている。調理業務も、接客業務も細かくマニュアル化されている。たとえばラーメン一杯の原価はいくらで、どういう調味料を何グラム用いるかなど、細かく決められている。「うちの店ではこうすることになっている」という基本的なオペレーションが教えられる。それに反したらダメで、合わせるようにせよといわれる。ただし、能力的に不足があり、やろうとしてもできないことについては許されるし、また、できないことを見極められずにやらせた店長の責任だということにされる。これは、一律の基準による管理主義指導そのものだろう。だが、私はそれを受けて、全く窮屈だ、という感じを受けない。もちろん個人差もあるだろうが、それは、この「しつけ」が善悪とは無関係であるだろうことが判明だからだ。究極的には、できなくたって、ぜんぜんどうでもいいのである。
管理主義教育の二つの対象とは、集団生活に必要な機械的な決めごと(左側通行など、別に右側通行でも良い)と、善悪である。かつての管理主義教育が機能しなかったのは、(あるいはえげつない反作用を生んだのは)その実践者たちがあたかも善悪を体現しているかのようにふるまったからである。陳麻家のマニュアルなど別にできなくても屁とも思わないが、「悪でいる」ことはそれ自体が許されないのである。