生活がブラック化している。
遠くには奨学金のため、近くには、卒論のためだ。
今期はスケジュール的に、年末まで定休日が一日もない。
体力的にはそれほどでもないのだが、精神的に、どうもまいってくるようだ。
自己実現と生活との関係ということが問題になっている。
「天下国家のこと」もぜひ考えたいのだが、目前の必要に追い立てられている。
友人たちと対話したり、様々な文化的活動をしたいけれど、時間がまわせないのだ。
もちろんそれは自己を律し統御する精神力の低さに原因するのである。
友人たちに見放されることが恐ろしく、わたくし的には優先性の高い生活上の目標に対する集中をかき乱す焦りが、そこから生じてくる。
精神的に向上心のないものは、馬鹿だ、ということなのだろう。
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政治と文学という、問題を考えたい…。
いま求められている「現代」という時代の精神的支柱は、この問題の先にしか、見出し得ないだろうとおもう。
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そして、まず、その卒論が完全に煮詰まった。
エクスキューズとともに、こうやって、書こうとしているのは、その打開のためだ。
どうせうまいものなんか書けないのに、意識ばかりが先行して、凝ろうとしてしまう。
眼高手低というやつだろう。目も悪いのだが。
とりあえず、もやもやとでも、書いてみるところしか始まらない。
書く事が十分にあって、それで書けば書くほど書けるタメが減っていくのではない。
書けば書くほど湧いていくのが思考というものだろうと思う。
そうでなければ、これほど書店に新刊が並ぶということはないだろう。
僕は幼稚だから、モチベーションを維持することが苦手だ。
これはもう判明で、だから、承認欲求をうまくつかってやることがよい。
つまり、そういうことなのだ。
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理想なんか持つものではない。
理想をもつから、理想の実現が全うされないで、自殺してしまうのである。
理想なんて一切持たないで、生活の必要のみを動機として社会的物質的成功を追求する動物のような存在になるほうがよい。
でも、そうはなれないところに、人間普遍の悲劇がある。
自殺というのは意識的の死であって、理想の実現を求めながら自殺してしまわないためには、この意識というものをなんとかしなくてはいけない。
煮詰まった人間の末路というのは鴎外漱石の時代から、三つしかないことはもうわかっている。
すなわち、宗教と、発狂と、自殺である。
意識の統御(根拠)をよそに預けることで安定を図るか、意識を失うか、身体を失うか、のいずれかである。
「河童」でも、これらが検討されることになる。
○同時代評
河童は、芥川本人の意気込みにもかかわらず文壇評は芳しくない。
「新潮合評会」
○問題
僕が問題にしたいのは、「出口」である。
ここでも、生きる道を自ら選ぶことができるようになった、あるいは選ばざるを得なくなった近代以降の根本的な問いである「如何に生くべき乎」ということが問題とされている。
ただし、芥川にとって、この、自己実現にかかわる問いは、多くの人にとってそうであるように、しばしば旅に喩えられる「生」という自由な道行きにおける、可能性に満ちた数多ある選択肢の中からそのうちのどれを選ぼうかという、あるいは「贅沢な悩み」としてではなく、「どれをとってもどん詰まりであるのに、果たしてどれを選べば終わりの見えない苦しい窮地を脱してその向こうに生を存続できるのだろうか」というほとんど反語的な「不可能性の圧迫」として現れていた。
「或阿呆の一生」に「彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。」(四十九 剥製の白鳥)とある。
晩年の芥川において「如何に生くべき乎」という問いは遂に、「狂うべきか死ぬべきか」というどちらも選べない苦渋の選択にまで窮まってしまった。
「河童」はこの問いの検討吟味として読むことが妥当であると考える。
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いったん、口語にします。
あとで推敲すればいいんじゃないかなとおもいます。
デスマスで話すほうが気楽なんですよね。
インタビューということで、いきましょうか。
で、あのー、芥川はすごい煮詰まっていて、それで、一応生き延びるために河童を書き、ダメで、死ぬために歯車を書き死んだんだ、という先行論文があって、僕もそう思うんだけど、じゃあ本当に河童はちゃんと検討しきったのかということを問題にしたい。
透谷→藤村みたいに、自殺した文学者を超克しないといけないという問題がある。
それこそ、文学史上にフラクタルにあらわれる。
あとでは、太宰と三島がいて、たとえば村上がいる。
芥川の場合は、直接には堀辰雄なんだけど、ほんとはたぶん谷崎をぶつけて考えたほうがわかりやすい。
谷崎全然読んでないので、すげー適当なことをいうと、たぶん、芥川は長編小説を書くことができれば自殺しないですんだんじゃないかと、僕は思っている。
谷崎はそれができた。あるいは女にモテればそれでよかったのかもしれないけど。
で、河童は何枚でもかけそうと書簡かなにかにかいている。
惜しかったんじゃないか、惜しいところまで行ったんじゃないか。
だから、流産した長編小説であるところの、路上の検討が欠かせないと思う。
で、超克のためには、いや、ここに道があるじゃないかということを示さなきゃいけない。
ひとつは、狂気を選べばいいじゃないかという居直りが可能なのか。
あるいは第三の道なのか。それは宗教しかないけど、「信仰」ということは、どうしたら可能なのか。
そんなことを考えている時点で無理なのか。
「信」の条件は無知・未知・非知・不可知かもしれない。
あるいは、意識の肥大をとめるためには「身体」というほうにいくかもしれない。
意識の統御ということで、意識の及ばないところを作ればいいのに、芥川はそうしない。
意識は、人間の生活や存在の全領域に及ぶということになる。
生活や存在を外から縛るものがあれば、足るを知るとか、無知の知とか、分を弁えるとかできる。
でも、そうしない。
なんでも意識の前におき、選ぼうとする。
出産を拒否する胎児と、死後から名声をうかがう霊魂が現れる。
意識以前と意識以後を否定し意識が時間的に無限化されるのだ。
そんなことしなけりゃいいのに、そういう条件下で考えようとする。
生まれなければ不幸にはならない。
死んでも救われない。
ん、生まれなかった胎児の意識はどこに行くのだろう。
死後の世界だろうか。
未生にして死後なのか。
でも、生まれなければ死ぬことはできない。
これは言葉遊びでなくて、こだわったほうがよい。
死んだ詩人トックの魂と問答する降霊術の描写が出てくるが、そこで、トックは自殺ならぬ自活ということをいう。
死後の心霊的生活のさらに向こうに生がありうるというのだ。
生にも死にも精神は持続する。生と死との違いは、物質的身体の有無ではないか。
意識的社交のもたらす娑婆苦は死後も存続するという認識が示される。
生が常に苦しいものであるとして、生まれなければ良いのだとする。
でも、胎児には物質的身体があって、出産以前に生はある。
胎内の生は苦しいか。
いちど生きて死んだ人は生の苦しみを知っているか、知らない幸福な人であるかのいずれかである。
生が苦しいと思っている人は、もう一度生まれようとしないだろう。死後も意識的苦しみは変わらないかもしれないが、生にはそのうえ、さらに身体的条件のもたらすたとえば経済的な苦しみが乗るからだ。
ということは、生の世界には、苦しみよりも幸福が多いとする人のみが転生し続けることになるではないか。
でも、それがなんになるんだろう。
トックの考察
○芸術家像の変遷
戯作三昧、地獄変、往生絵巻、河童、西方の人
○狂気の表象
「路上」