龍之介16、卒06 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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「沼地」
 ある雨の降る日の午後であった。私はある絵画展覧会場の一室で、小さな油絵を一枚発見した。発見――と云うと大袈裟だが、実際そう云っても差支えないほど、この画だけは思い切って彩光の悪い片隅に、それも恐しく貧弱な縁へはいって、忘れられたように懸かっていたのである。
雨の降る午後、小さな油絵
貧弱な縁、彩光の悪い片隅、忘れられた絵
誰からも見られない絵、知らない絵、あるはずのない絵


画は確か、「沼地」とか云うので、画家は知名の人でも何でもなかった。また画そのものも、ただ濁った水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。
誰も見ない知らない絵、死角となるところ
濁流と湿地と繁茂する草木
からみつく情念と、何かが潜むような深みと、陰湿なる土地、呪われた土地
どうしようもなく忘れられた、放擲された一角


 その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使っていない。蘆や白楊や無花果を彩るものは、どこを見ても濁った黄色である。
濁った黄色、生命なき草木、人間をからめ捕り引きずり込むいやな匂いと濁り
忘却と頭痛と鈍った思考
現在の溶解と時間の停止、過去への執着、閉鎖される未来

まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を加えたのであろうか。――私はこの画の前に立って、それから受ける感じを味うと共に、こう云う疑問もまた挟まずにはいられなかったのである。
どうも嫌な感じ。画家の目


 しかしその画の中に恐しい力が潜んでいる事は、見ているに従って分って来た。殊に前景の土のごときは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせるほど、それほど的確に描いてあった。踏むとぶすりと音をさせて踝が隠れるような、滑かな淤泥の心もちである。
足がぶすりと沈み飲み込む、なめらかな汚泥、沈滞し堆積するもの
忘却の中に丸呑みにされ消化されること


私はこの小さな油画の中に、鋭く自然を掴もうとしている、傷しい芸術家の姿を見出した。そうしてあらゆる優れた芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚たる悲壮の感激を受けた。実際同じ会場に懸かっている大小さまざまな画の中で、この一枚に拮抗し得るほど力強い画は、どこにも見出す事が出来なかったのである。

自然を鋭く掴もうとする傷ましい芸術家
誰からも顧みられることもない
恍惚たる悲壮、力の潜在


「これは面白い。元来この画はね、会員の画じゃないのです。が、何しろ当人が口癖のようにここへ出す出すと云っていたものですから、遺族が審査員へ頼んで、やっとこの隅へ懸ける事になったのです。」
「遺族? じゃこの画を描いた人は死んでいるのですか。」
「死んでいるのです。もっとも生きている中から、死んだようなものでしたが。」
 私の好奇心はいつか私の不快な感情より強くなっていた。
「どうして?」
「この画描は余程前から気が違っていたのです。」
「この画を描いた時もですか。」
「勿論です。気違いででもなければ、誰がこんな色の画を描くものですか。それをあなたは傑作だと云って感心してお出いでなさる。そこが大に面白いですね。」

生きているうちから死んだようなものである気違いの画家
傷ましい芸術家は生前、自然を鋭く掴むことができたのだろうか?

恐ろしい焦燥と不安

「もっとも画が思うように描けないと云うので、気が違ったらしいですがね。その点だけはまあ買えば買ってやれるのです。」
 記者は晴々した顔をして、ほとんど嬉しそうに微笑した。これが無名の芸術家が――我々の一人が、その生命を犠牲にして僅に世間から購ない得た唯一の報酬だったのである。

自然それ自身を見るような凄じい勢いで生きている鬱蒼たる草木たち
生命の晴朗さを欠いた、飢餓と貧困の叫びと苦痛のもつ潜在的な力
手を伸ばす死者たちの無底なる瞳の漆黒