書き始めることにした。
一日目標2000字
1000字以上ノルマにしよう(引用でいってしまう)
で、週5回、四週
渡邉正彦は『近代文学の分身像』のなかで、「影」における「分身」について論じている。
「陳彩は部屋の隅に佇んだまま、寝台の前に伏し重なった、二人の姿を眺めていた。その一人は房子であった。――と云うよりもむしろさっきまでは、房子だった「物」であった。この顔中紫に腫はれ上った「物」は、半ば舌を吐いたまま、薄眼に天井を見つめていた。もう一人は陳彩であった。部屋の隅にいる陳彩と、寸分も変らない陳彩であった。これは房子だった「物」に重なりながら、爪も見えないほど相手の喉に、両手の指を埋めていた。そうしてその露わな乳房の上に、生死もわからない頭を凭せていた。」
加虐的快楽の手段へと「物」としての身体が描かれている。
しかし、なぜ芥川は陳を中国人として描いたのであろうか。渡邉は「陳は、外国にいて、それも差別されている中国人として、自分が日本と日本人にとって他者であることを絶えず意識させられていたはずである。自分は、日本においては、所属するところを持たない人間であり、根のない、あってあらぬ者、つまり、非在者である。透明人間である。陳は、そこから生まれる孤独・不安・異和・疎外・緊張などの感情をつねに味わっていたであろう。」としている。一人の人格的存在として待遇されることのないことが彼を透明化させ消去してしまう。
漂泊者など、ある場におけるマイノリティー的存在であること、異物であり、異世界的で、異質な存在であること。その性質自体のために場への滞留を許されない。人と異なる性質をもつことでその場における均質性を乱し、斉一性を破壊するエラー秩序壊乱の退去させるようにしてしまう無用な余計者、はみ出し者であること、
ろくに相手にされないで無視され放擲されること
何者にもなることができず充足されないこと
不安定でどこにも進むことができずにぐるぐると回ってしまうこと
「陳は房子を愛し、房子に愛されることによって、外国人という他者として、そして、男という他者として二重に受け入れられた。房子という他者から他者である自己が受け入れられ、房子という他者を他者である自己が受け入れた。透明人間ではなくなり、日本の現実の中に自己同一性を獲得し、存在の根を持った。日本人の妻を持つということは、日本人と日本の現実の中に自分の根を生やすことであった。母国を離れて、右のようなさまざまな感情を味わっていた陳にとって、そのような房子は単なる妻ではなく、自分の他者性を緩和してくれる、母に等しい存在だった。したがって、房子と住む鎌倉の松林に囲まれた静かな家は、陳にとって、母の胎内に等しい存在だった。それだけに、陳は、自分にとってそのように大切な房子が、自分から失われる不安も常に持っていたに違いない。」
陳はついに、姦通者としての役割を演じる自らの分身を目撃してしまう。渡邉はその理由について、嫉妬から生じた妄想という観点から次のように考察している。
どこの何者か分からぬ姦通者に対して、陳は嫉妬した。嫉妬は、姦通者が房子を犯すことをありありと想像することによって生まれる。それは、自分が房子と交歓した経験をなまなましく想起し、その自分と他者=姦通者を入れ替えることによって行われる。しかし、なまなましく追体験すればするほど、その入れ替わりには耐えられない。まして、房子は陳にとって、先に見た「理想的――絶対的な他者」である。他者=姦通者と入れ替わることによって、中国人である自分が房子を失うことは、日本に対して他者になり、存在の根を失い、自分の自己同一性を破壊することである。そのため陳は、他者=姦通者となる代わりに、自己の分身を作り出してその役を担わせ、自己の破壊から自己を防衛するのである。
「嫉妬」について
「覗くこと」と「見せつけられること」
その相互的な言語の交換と交歓のなかで恒常的な安定性を獲得する