2000字増えまして12000字です。
表現一部改めてあります。
まず、豊雄という人物の造形について考察する。豊雄にとって現実のこの世界はどのようなものであり、また、そこで生きていくことはなんであるだろうか。豊雄は父親から「徒者」と呼ばれてしまうくらい、親に依存している、今日の言葉でいえば「パラサイトシングル」であった。「質朴にてよく生産を治む」、性質が律儀で真面目に家業を取り仕切る兄や、「大和の人のつまどひに迎えられて、彼所に」いった、すでに嫁いでいき家を出た姉に対して、「生長優しく、常に都風たる事をのみ好みて、過活心なかりけり」、生まれつき優しい性質で、いつも風流なことを好んで、しかし、だからこそ、世間知らずで自活心のない青年として、秋成は描写する。父親はこれを「憂つつ思ふ」、「家財をわかちたりとも即人の物となさん。さりとて他の家を嗣しめんもはたうたてき事聞くらんが病しき。只なすままに生し立て、博士にもなれかし、法師にもなれかし、命の極は太郎がほだしものにてあらせん」とて、強て掟をもせざりけり。息子の将来を案じて考える、財産を分けてもすぐ人に取られてしまうだろう、かといって、他家の跡取りとして婿入りさせても、結局はうまくゆかないとなって苦の種となるもわかりきっている。いっそ、当人の気の向くよう育て、末は学者になるならなるでよし、僧侶になるならなるでよし、とにかく一生を兄の厄介者として過ごさせるよりしかたあるまいとするのである。たしかに何不自由なく、学問をさせてもらえるボンボンである。しかし、それはあくまで家に害を及ぼす能力も意思もなく、またそれらを獲得する可能性から疎外されている安心で弱く可愛い、家の「主」に対する「従」の存在をはみださないという条件のもとでの自由であり、そこには自分自身の存在をつくりあげる自己決定の自由がない。「依存する立場」としてのどうしようもない肩身の狭さ、そして不安定さがある。兄から疎まれ、かといって反抗するだけの膂力が豊雄にはない。「あなむつかしの唐言書たる物を買ひたむるさへ、世の費なりと思へど、父の黙りておはすれば今までもいはざるなり」、兄は豊雄の学問の費用を無駄であると考えるが父親がだまっていればこそ出してやっている。豊雄は依存していればこそ、いつそこから追放されるかわからない不安定な境遇であり、またその限りにおいては確かに家に甘えて養ってもらうことのできる、「何の役にも立たない学問」の世界に身をおくことのできる高等遊民のような特権的な立場を享受している。豊雄の世間知らずな、なま優しさは自分自身に対して厳しくなることのできない弱さからくる煮え切らないそれであり、風流なことを好む趣向は、彼を食わせ何不自由のない生活を送ることを許す下部構造でありたずきの道であるところの、鄙びた紀ノ国における「漁業」という肉体労働に対する身勝手な嫌悪の裏返しである。豊雄は自分が住む海辺の土地を「かうすさまじき荒磯」、辺鄙な上に荒々しく見所のない場所と評価する。ここではないどこかとしてのユートピア的なイメージを、都における生活に対して抱いている。豊雄を甘やかし自立や自己実現を許さない父の生ぬるいペット的な支配が豊雄を遊ばせ、真に現実と向き合うことなしに斜に構えどこか浮ついた態度をとらせる。生きることが、さまざまな困難の中でそれにめげず挫けずに格闘し、選び難い厳しい選択をみずからなさざるをえないような、無垢でいることのできない非情な事態であるとすれば、豊雄はそんな人生をまだ真には生き始めていないといえるだろう。彼はじぶんの境遇に対して、無垢で無責任な不満を抱いているが、それを変えるための具体的な行動を実現しようとは、ついに考えない。その意味で、彼の理想は、まったく空想的な水準にとどまっている。それはむしろ、彼を自立や自己選択からかえって遠ざけてしまう。彼の生活は退屈であればあるほど空想へと彼を追いやり、空想に埋没すればするほど生活が退屈なものに思えてくるために真剣に取り組むことから逃避させてしまう。豊雄はいよいよ悪循環な放蕩のなかへ落ちていこうとしている。
そんな豊雄の前に、真女児はかれにとって理想の女性としての姿をとってあらわれる。いや、理想の女性の姿の幻想を豊雄に見せる。それは、豊雄のもつ、イデア的な意味での女性の範型という意味ではなく、現実世界において豊雄が実際に惚れてしまう相手としての具体的な魅力を備えた女性像である。最高の妻であり最高の嫁であり最高の母となりそうであるというような正しく善く美しい存在であるというのではなくて、豊雄にとって付き合うのに都合がよく、居心地のよい、手を出したくなるような、母性と娼婦性を備えた女の姿である。『エロス身体論』において、小浜逸郎は母性を「自分に深くかかわりがあって、しかも自分よりも弱いと感じられる存在を、愛する対象として保護し、包み込みたいと思う」わが子への慈しみの情であるとし、娼婦性を、「性的な欲望や女の美へのあこがれを抱きながらそこに倫理が入り込むのを避けたいとする男の欲求を了解しつつ、そのつど男を誘惑する力を示すおんな身体のあり方」であるとする。ここで倫理とは「人間が、他者とのあいだである行為をなしたとき、またはなそうと思ったとき、その行為を人生時間の「長さ」についての意識(これからもまだ生きていくという予期の意識)や、人間関係の広がりについての意識との関わりにおいて問題とする志」であり、「善悪の具体的な基準」をあらかじめ内部にもっていないという点において、それを規定の、有無をいわせぬ具体的なものとしてもっている「道徳」と峻別されるとする。要するに、娼婦性における「倫理が入り込むのを避けたいとする男の欲求の了解」とは、性行為の結果として当然起こりうる妊娠・出産という重大事の可能性を意識の射程から排除したいという男の身勝手に対する許容である。
本文において、真女児(の見せる幻想)における母性と娼婦性とを確認してみよう。登場シーンにおいては、「年は廿にたらぬ女の、顔容髪のかかりいと艶ひやかに、遠山ずりの色よき衣着て、了鬟の十四五ばかりなるの清げなるに、包し物もたせ、しとどに濡てわびしげなるが、豊雄を見て、面さと打ち赤めて恥かしげなる形の貴やかなる」、まだ二十歳前の、顔貌髪の様子のたいそう艶やかな、色美しい遠山摺りの衣装を着た女で、こざっぱりした十四、五歳ほどの少女に包みものをもたせていたが、雨にびっしょりと濡れて困りきっている。豊雄を見て、恥ずかしげにさっと顔を赤らめる。雨に濡れた衣服はその下に隠された身体の線を強く意識させる。顔を赤らめるという反応を示すのは、豊雄の性的な視線を意識していることを豊雄自身に投げ返す効果をもつ。それは、見られていることを見ているという、「意識に対する意識」、受動を捉え返す能動性として、投げ返すことで、禁止されているはずのことを侵犯しているという「関係性」を劇的に浮かび上がらせる。見てはいけないものを見ているのだということをあらためて強調することで、いよいよ豊雄はそれをしないではいられない。「現在時点で、他者の身体への直接の接触を封じられているという事態そのもの(孤独であること)が、性的存在としての自己意識を発生させ、自分の身体を性愛的身体として構成させるのである(『エロス身体論』)」。豊雄はその落差に目がくらむようにして、真女児に心奪われ強く惹かれてしまう。これは、禁止されたものを侵犯しているが、身体への接触、さらには性交渉という本当の侵犯からはつよく隔てられているという意識の喚起を通じた身体の性愛的対象化である。この視線の戯れのような闘争のなかで、真女児はゲームの強者すなわち娼婦的な魅力を垣間見せる。
真女児の住む家は、「門高く造りなし、家も大きなり」とされる。豊雄にむかって語られる素性は次のとおりである。「故は都の生なるが、父にも母にもはやう離れまゐらせて、乳母の許に成長しを、此の国の受領の下司県の何某に迎へられて伴なひ下りしははやく三とせになりぬ。夫は任はてぬ此春、かりそめの病に死給ひしかば、便なき身とはなり侍る。都の乳母も尼になりて。行方なき修行に出でしと聞ば、彼方も又しらぬ国とはなりぬるをあはれみ給へ」、もと都の生まれですが、父にも母にも早く死に別れ、乳母の手で成人しましたのを、この国の受領の属官の県の何某という人の妻に迎えられ、この里に伴われて早くも三年になりました、夫は任期も果てぬこの春、ふとした病がもとで亡くなりましたので寄る辺ない独り身になってしまいました。都の乳母も尼となり、行方知らずの諸国修行に出立したとのよしで、故郷の京も見知らぬ国になってしまった身のわびしさをご推察くださいませ、と。はやくに父母をなくし監督者のいないこと、若い未亡人で巨大な邸宅と財をもち自立していながら世間慣れしていること、都の出身でありながら田舎暮らしにもすでに適応していること、どれも、豊雄にとって、願ったり叶ったりな「都合の良い」条件を備えた女性なのである。そして、ついに正式に夫婦となった後には、「千とせをかけて契るには、葛城や高間の山に夜々ごとにたつ雲も、初瀬の寺の暁の鐘に雨收まりて、只あひあふ事の遅きをなん恨みける」、行く末ながく心がかわるまいと深く契れば、葛城の、高間山に夜毎に立つ雲は雨を降らし、その雨は長谷寺の早朝の鐘に初めて止むというように、毎夜、夫婦の愛がこまやかに交わされ、互いにただめぐり逢いの遅かったことを恨むほどであった、と、夫婦の契りを夜毎に繰り返す。
しかし、こうした、豊雄が見たい姿、豊雄が望む女性像がそのままに具体的な実現をみた女性としての存在は、真女児の見せる幻影である。豊雄の欲望を照らし返した、あるいはさらに屈曲させて映し出されたデフォルメ的な虚像にすぎない。蛇の瞳は閉じられることがなく光を反射する、魔術的な鏡である。真女児が豊雄に見せるのは美しく妖しい甘美な世界であり、物語の冒頭、豊雄がみた夢の、現実への侵犯である。充足してはいるもののその実不安定な、何不自由なく養われており明日の米びつを心配する必要から解放されているものの肩身が狭く息苦しい、退屈な毎日の繰り返しに過ぎなかった豊雄の世界は、妖艶で蠱惑的な夢によって覆われていく。蛇の目に魅入られた蛙のように、夢が覚めることなく真女児に丸呑みにされ、呑まれた当人がそれに気がつくこともなくゆっくりと消化されていくのなら、それはそれで、ひとつの幸福な生であるといえるかもしれないが、秋成はそれを許さない。
夢想が破れていく結末を考察する前に、真女児の別の重大なる呪力であるところの、「憑依」と「天候操作」、そして「毒」についてみてみよう。まず「憑依」である。真女児の正体を知った後、両親や親戚は「魔物にとりつかれるのは独身でおくからだ」として豊雄に嫁取りをさせる。芝の庄司の富子という娘と婚姻し、豊雄は婿入りした。その二日目の晩、豊雄のまえに空恐ろしい出来事が訪れる。『富子即面をあげて、「古き契を忘れ給ひて、かくことなる事なき人を時めかし給ふこそ、こなたよりまして悪くあれ」といふは、姿こそかはれ、正しく真女子が声なり。聞にあさましう、身の毛もたちて恐しく、只あきれまどふを、女打ゑみて、「吾君な怪しみ給ひそ。海に誓ひ山に盟ひし事を速くわすれ給ふとも、さるべき縁にしのあれば又もあひ見奉るものを、他し人のいふことをまことしくおぼして、強に遠ざけ給はんには、恨み報ひなん。紀路の山々さばかり高くとも、君が血をもて峯より谷に潅ぎくださん。あたら御身をいたづらになし果給ひそ」といふに、只わななきにわななかれて、今やとらるべきここちに死に入りける。』、富子は顔をあげて、「以前からの深い仲をお忘れになってこんな格別でもない人をご寵愛なさるのは、今更ながらあなたにもましてこのひとが憎うございます」という。姿かたちは富子だが、その声は確かに真女児のものである。それを聞くなり、ぞうっとなり恐ろしさに身の毛がよだち気もぼんやりとなってうろたえるだけであったが、おんなのほうはにっこりして、「あなた、怪しむことはありませんよ。海山にかけてかたく誓った約束を、早くもお忘れになったとしても、こうなるべき運命の縁があればこそ、再びみたびとお逢いするのです。他人のいうことだけを真実らしく思い込み、しいてわたしをお遠ざけになるならば、恨みをお報いしないではいられません。紀州の山々がどんなに高くても、その峯から谷へ、あなたの血を注ぎ下しますよ、あたらせっかくのお命を無駄になさいますな」という。その恐ろしさにただ震えに震えるだけで、今にも取り殺されるかと気も失わんばかりであった、と。ここで富子の身体に起こっているのはどういう出来事であるだろうか。まず、それは、真女児による富子への「憑依」である。憑依は、身体を奪い、言語を奪い、生命を奪う(最終的に、結局富子は病死してしまう)、三重の、三性質の侵犯である。蛇はその激しい交尾から、淫乱な性質をイメージさせ、腹這いに追跡し全身で獲物へと絡みつく姿から、執念、嫉妬、陰湿さの隠喩とされる。獲物を丸呑みにする身体の形状から女性器を、また、その鎌首をもたげる様子から男性器を連想させる。蛇の淫靡で執念深い侵犯と支配の性質は、両性具有的である。真女児は豊雄のみならず、富子の精神をも呑み込んでしまう。第二に、富子の異変は、彼女自身のうちなる蛇性の顕現であると捉えられる。外部から蛇性が侵犯してきたのではなく、真女児の毒が、あらかじめ持っていた富子の内なる蛇的な暴力性を喚起し、孵化するように内側から食い破って表へとあらわれたものである。それは、言ってみれば、富子と真女児の精神的な水準における共振=連帯であるのだ。豊雄の裏切りと暴力を告発し非難する声は、彼にしてみれば、追跡してきた蛇のように、執念深い過去からの復讐のようにみえる。「女たち」からの拒否・告発は、豊雄にとってもっとも恐ろしい悪夢である。第三に、それは、豊雄自身の後ろめたさによる幻影である。ここでもまた、あの鏡としての蛇の目という、心的印象のデフォルメ的増幅装置が発動している。さきにおいては、豊雄の正の願望としての美しい幻想が夢のように映し出され像を描いたように、今度は、豊雄の負の願望、そうなってほしくないという悪夢的妄想の像が、現実の富子の身体のうえに投影される。それは見たくもないおぞましい夢なのであるが、しかし、それを想像しないではいられない、じぶんでは止めることのできないような固着的印象としてある。それは、ちょうど、正の願望における禁止と侵犯の関係性と、まさに鏡映しのようになっている。美の印象において、その快楽が、欲望の対象であり客体としての真女児による接近の禁止を、主体たる豊雄が侵犯するが到達しない意識によって無限に増幅されたように、醜の印象においては、主体たる豊雄による接近の禁止が、対象=客体としての富子の身体(真女児の声)によって侵犯される。侵犯の意識が完遂・踏破されることがないがために、かえって、繰り返し再起する煮え切らない無限の苦しみとなって、豊雄を襲うのである。「紀州の山がどんなに高くてもその峰から谷へあなたの血を注ぎ下しますよ」とは、照らし合う意識の無限性、無限の快楽の転倒としての無限の苦を表現したものではないだろうか。どこまでも高い紀州の山からどこまでも深いその谷へと、いつまでも豊雄の血は注がれ続けついに地へと到達することはない。その暴力の過剰性は真女児の豊雄に対する限りない誘惑の陰影であろう。
次に、「天候操作」である。真女児は天候を操作する能力を持っていることが示唆される。冒頭、豊雄と出会う場面においては、そのきっかけとなる傘を借りるのはにわか雨のためである。荒廃した廃屋のなかで役人に捕らえられそうになった瞬間、地も割れんばかりの雷鳴が轟く。翁に正体を見破られた直後、「此の二人忽ち躍りたちて、滝に飛び入ると見しが、水は大虚に湧あがりて見えずなるほどに、雲摺墨をうちこぼしたる如く、雨篠を乱してふり來る」、二人はいきなり躍りたって、滝に飛び込んだかとおもうと、とたんに水が大空へと湧き上がってなにもみえなくなってしまい、墨をこぼしたような真っ暗な雲が出て、雨がしのつくように降り出してきた、とある。このように、雲を沸き立たせて雨を降らせる力、そして、雷をあやつる力があるようだ。雨乞いの能力は、氾濫する河のうねりを蛇や竜に見立てる想像の延長に位置すると考えられる。雷は、その形状から蛇を連想させる。比喩的な蛇との連関は判明であるが、真女児のもつ呪力に対して、雲(蒸気)・雨(滝)と、雷がどういう演出的、心的効果を与えているかは考察が必要である。一度だけ登場する雷の方はそれほど難しくない。雷は、発光によって人の目を眩ませるとともに、明かりとなって幻影をむしろ晴らして、かき消す効果をもっている。また、稲妻は、稲の妻と書くように、雨の予兆となって稲を大きく実らせる連想から、盗まれた宝物があらわれる前触れとして機能している。雨の方はもう少し難解である。立ちあがる雲は上る水であり、雨は下りる水である。どちらも水の移動であり、印象の表出であると考えられる。蛇は水と関わりが深い。その生息地は水辺や湿地であるし、嫉妬、淫乱、執念などの陰湿な性質の連想も、湿地に生息する蛇の濡れた身体の印象を蝶番にして結合されている。水は印象のメタファーであり、その運動は心の変容の表象とみなせる。下りる水は、川や滝と同様に、自然な生理的な印象の運動である。それは重い水であり関係する者に対して、沈むことや溺れることといった反作用を引き出す効果をもつ。対して、上る水は反自然的、人為的である。熱蒸気は火を想起させる。爆発、加熱、焼尽のような祝祭的な軽やかさ、晴れやかさと爽やかさへと連関する。この、上る水と下りる水の即時的な転換と途切れ目のない循環は、蛇の脱皮が幻視させる永遠の生命の印象と結びついている。真女児のもつ救いようのない陰湿さと、豪華絢爛たる甘美さとの併存は、雲の隆起と降雨との転換・循環と対応する。
第三に、「毒」である。真女児を調伏するために招かれた鞍馬寺の僧は自信たっぷりの様子であったが、大蛇のすさまじい形相にひとたまりもない。「人々扶け起こすれど、すべて面も肌も黒く赤く染なしたるが如に、熱き事焚火に手さすらんにひとし。毒氣にあたりたると見えて、後は只眼のみはたらきて物いひたげなれど、声さへなさでぞある。水濯ぎなどすれど、つひに死ける。これを見る人いよよ魂も身に添はぬ思ひして泣惑ふ」、人々が助け起し介抱したが、顔も肌もすべて黒く赤く染めたようになって、その熱さは、まるで焚き火に手をかざすようであった。毒気にあたったとみえて、後にはただ目だけが何か物を言いたげに動いたが声さえ出せなかった。水をかけたりしたが、ついに死んでしまった。これを見た人々は、いよいよ恐れ、魂も宙に飛ぶ思いで泣き悲しむばかりである、と。ここで毒気にあたった僧が焼け死んだような姿となりはてるのは、もちろん道成寺伝説の残照であるが、この毒とは、どんなものであるだろうか。まず、仏教に関連してすぐに想起されるのはいわゆる「三毒」の教えである。克服すべき根本的な煩悩を毒にたとえたものであるが、三つの煩悩とは、貪・瞋・癡である。貪は貪欲でありむさぼり求める心、瞋は瞋恚であり怒り憎む心、癡は愚癡であり愚かで無知な心をいう。毒気にあたって僧が焼け死ぬという図象は、真女児の抱えるあまりにも強い煩悩、乱れ狂う心の荒れざまに耐えることができずに、それを治め鎮めるための専門職であるはずの僧が焼き切られてしまう様子を劇的に強調した表現である。かならずしも、仏教で言うところの三毒ではないかもしれないが、仏教ならずとも、人間の感情は、精神のみならず身体をさえ侵犯しついには殺してしまいかねない毒であるという認識は一般的に通用する。
ここで先に少し末尾の箇所を見てみよう。後半部において、一瞬だが豊雄が「丈夫心」を抱きかける場面がある。富子を助ける代わりに自らを犠牲としようとする豊雄は真女児に対して次のように語りかける。「豊雄いふは、「世の諺にも聞ゆることあり。『人かならず虎を害する心なけれども、虎反りて人を傷る意あり』とや。爾人ならぬ心より、我を纏うて幾度かからきめを見するさへあるに、かりそめ言をだにも此の恐ろしき報ひをなんいふは、いとむくつけなり。されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば、ここにありて人々の歎き給はんがいたはし。此の富子が命ひとつたすけよかし。然我をいづくにも連ゆけ」といへば、いと喜しげに点頭をる。」、諺で知られているとおり、「人に必ずしも虎を害する心がなくとも虎には人を傷つける心がある」のである、おまえが人に非ざる心から自分につきまとって離れず、幾度も辛い目に合わせた上に、かりそめの言葉にしても、聞くも恐ろしい復讐を言うのは、きわめて恐ろしくあさましい。しかしながら私を慕う気持ちはやはり世の人間とは変わらない上は、その気持ちに応えよう。ただこの家にいると人々が嘆き悲しむのがいたましい。この富子の命一つを助けて欲しい。そのうえで、自分をどこにでも連れてゆくがよい」と言うと、真女児はうれしそうにうなずいていた、と。真女児の嵐のような感情は、それ自体が自他を傷つけてしまう「猛毒」であり、「虎」なのである。それは存在の贈与と祝福であるところの「愛」ではない。
ヴァルター・シューバルトは『宗教とエロス』の中で、「貪食」を「真正の性愛」と峻別する論を展開している。貪食本能は真正の性愛ではない。貪食はエロスの力によって他者を支配し所有しようとする本能であり、そこには「横溢する生命が感謝の念に衝き動かされつつ奔出する運動であり、生殖と創造を司る根源的諸力に対する陶酔的な自己犠牲の業であって、力への意思や所有本能などという一切の欲望とは正反対のものである」ところの「献身」が欠如しているからである。貪食は享楽という目的を第一義とし、他者の自我を自己のうちへ呑み込もうと欲する。人格的存在としての他者を享楽のための手段として隷属化し、利用物件へと引き下げる。すべて他者は彼の快楽の客体であり、支配の対象に他ならない。そのとどまるところを知らない自己拡大の衝動がいたり着く最後の結末は加虐的な淫楽殺人である。存在の抹消、否定、殺害へと至るのである。「蛇性の婬」もまた、相手の存在の祝福ではなく、ひたすらに自己存在の肯定と拡大のための食人的享楽として、ある。
貪食の人間は情欲の対象を自己に服従させようと欲する。そして相手が無力であることを、さらには力のみならず何ものを持たないことを求める。相手が無力であればあるほど、彼は一層容易にこれを征服し、支配の喜びを安んじて味わえるからである。「恋する者が何ものにもまして願うことは、恋人がこの世で真に価値あるもの、意義あるもの、否、神聖なものをも、すべて奪いとられて何ひとつもっていないということなのだ。父親もなく、母親もなく、血縁の者たちもまったくないならば、彼は喜んでその者を受け入れる。恋する者は恋人の所有物に嫉妬を覚え、彼が蒙るすべての喪失を眼を輝かせて喜ぶ」真女児もまた、父母を持たず端女であるまろやの他に血縁のものもまったくもたない存在であり、恋人である豊雄の所有物に嫉妬を覚え、彼が蒙るすべての喪失を眼を輝かせて喜んだのであろう。秋成は、そうした「持たざるものに対する支配の喜びとその持続を希う偸安の念」を非難するためにこれを「反人間的な蛇性」と表象し、豊雄に対峙させたのである。その通りなのだろうが、それにとどまらない。ここでもやはり鏡像的な関係性の反復を示している。「支配の喜びと偸安の念」は、真女児のみならず、まさにその「反人間的な蛇性」と対峙すべき、本来それを拒斥するために最も遠い場所に立っていなくてはならないはずの豊雄のなかにも見出すことができる。豊雄が真女児に惹きつけられたのは、その虚ろさのためでもある。すでに充実した生活を奪われた未亡人であり都へのたよりをも失った天涯孤独な身の上であるという「漂白性」によって強化されたのであって、それを埋めてやりたいとか、あるいは相手のための自己犠牲を厭わないというような献身的心性はついぞ見られなかったのだった。さらには豊雄を安住させかつ支配する、彼を飼い慣らし続ける彼の父親にまで通底している。豊雄にとっては物語冒頭における家族関係がすでに、その後遭遇する「蛇性」の先駆として存在している。ヴァルターは「家族とは本来団結と平和の小島なのであり、人類の大多数は、この小島での相互依存と相互扶助の生活を通してはじめて各自の利己心を克服する術を習得するのである」としている。私もこれに全く賛同する。家族とは本来そのようにあるべきものである。しかし不幸にも、現実には多くの場合、そのようにはなっていない。本来的に、人間集団が専制君主的な支配と偸安の念による腐敗へと転落していく傾向をもつことを示す事例ばかりが満ちている。そうではないような可能性、すなわち、「愛する者は自己自身の限界に気づき、そしてこの限界に気づくとき苦痛を覚えるが、貪食本能の人間は自己自身に埋没しているため、この限界に気づかないし、また気づこうともしない」とヴァルターが書くとき彼が期待し要求しているところの、愛による気づき、または同時に、愛へと向かいそれを約束する気づきの可能性は奈辺に存するのか。それは列挙される過去の事例のうちにではなく、いまだ到達されない理念として、残されているのではないだろうか。まだない家族関係、作中においては、やがて豊雄と真女児によって作りあげられるべき、隔絶された人間性と蛇性とのいずれをも排斥し否定してしまうことなく架橋し、回収し、祝福してしまうような圧倒的に寛容なる異種婚姻である。縁を結び合わせる蛇の紐帯的性質に、別様な解決策のあり方を幻視してしまう。
最後に結末を考察する。豊雄は、真女児の正体に気がついた後も、他人のいいなりになり状況に押し流されるような無責任で非主体的な態度を改めない。けっして自己選択という、無垢さとトレードオフな生の根本条件を手にしようとしない。真女児の正体を見抜いた当麻酒人に予告されているとおり、豊雄自身が雄々しい「丈夫心」をもち、心を静めるのでなければ、被害が拡大するばかりなのである。物語の結末において、ついに、豊雄はその「丈夫心」と呼べるであろう「自己決断」を眼前にする。「吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば、ここにありて人々の歎き給はんがいたはし。此の富子が命ひとつたすけよかし。然我をいづくにも連ゆけ」、わたしを慕う気持ちはやはり世の人と変わらない上は、その気持ちに応えよう。ただこの家にいると人々が歎き悲しむのがいたましい。この富子の命ひとつを助けて欲しい。約束するなら、私一人をどこにでも連れていけ、と真女児に対していうのである。真女児もそれに答えて約束する。豊雄は現実を具体的に変革しようとする行動の第一歩をついに踏み出そうとする。しかし、富子の実家の庄司がいっこうに承知しない。道成寺の法海という僧侶に相談し調伏のための袈裟を借りてくる。これを真女児にかぶせよ、と。豊雄はそれを受け入れ、そのままに実行する。この場面において、豊雄の葛藤や抵抗はいっさい描かれない。結果、真女児とまろやは力ずくで封じ込まれ豊雄は助かるが、富子はついに病気にかかって亡くなってしまう。一瞬示された豊雄の丈夫心はただちに挫かれ、所属する共同体であり、利害関係者たる家の論理に従って、誤った道へと押し流されてしまう。自らの手で真女児を封じたという点で、たしかに、傍観拱手する無責任非行動な立場を脱しているが、庄司に言われ仕方なしにやらされたのだというエクスキューズを担保するふるまいである。高田衛は『「蛇性の婬」の系譜――秋成・鏡花・中上健次』においてこれを次のように評価している。「最後に庄司家のゆかりで道成寺の法海和尚が出馬したことは、豊雄を人間の立場にひき止めるきわどい仕かけであった。豊雄が法海和尚の芥子の香のしみた袈裟を圧しかぶせることで、自ら真女子の鎮圧の手先になったことにこそ重要な意味があった。それこそは豊雄が異類を排除する人間の立場を、心づよくも恢復したことの象徴だからである。そして最終的にはこのように行動する豊雄を描くのが「蛇性の婬」であって、原話の「白娘子永鎮雷峰塔」にはないものであった」しかし、果たしてそうだろうか。異類を排除する人間の立場へと戻ることは、はたして「恢復」であるだろうか。私には、病のぶり返しにしかみえない。豊雄は、それまでに充足していた、自分を食べさせる生活の下部構造であり、様々な危険や不快から身を守る防波堤であるところの、既存の家と家族関係を選んだ。そこで選ばれなかったのは、抑圧され忘却されたのはなんであるか。それは、異質な他者とのあいだに関係性を立ち上げ持続するという、冒険的な家族関係の、積極的な構築の可能性ではないだろうか。真の丈夫心は、まさに、その、冒険を辞さない勇気であり、異質な、異形な、異世界的な、理解を絶した他者との間で育まれる愛をこそ守る企図のなかに生まれるのではないのか。あるいは、「いや、その他者を、積極的に殺すという「冒険」があり、退屈な家族との関係性を捉え直しそのなかで生きることを改めて「選択」した豊雄は成熟した高次の丈夫心を獲得したのだ」という批判がありうるだろう。さらに、そうではない。真なる蛇神の拒絶とは、上代における素戔嗚尊の、八岐大蛇という悪しき神に対してなされたそれのような、「太刀」による「切断」であるはずだ。蛇はその紐状の体型から、人々に、縁を結び合わせる呪力や、異界への門となるような境界性を連想させてきた。紐の呪力を奪うにはそれを切断する行為が本当は必要なはずである。そして、その切断に用いられるべき太刀は、物語の冒頭において、こともあろうに、まさに当の真女児自身によって、豊雄へと与えられているのである。冒頭における黄金の太刀こそは、丈夫心の象徴と考えられるべきである。真女児によって手渡された太刀とは、人生に向き合うことのない生半可な豊雄に対する挑発的な問いにほかならない。「その太刀で、退屈な日常(としての親族)か、変革の甘い夢(としての真女児)か、いずれかを切り捨てよ!」そのいずれをも斬ることのできない豊雄は、去勢された虚しい奴隷的存在へと堕落していく運命をみずから選んでしまう。他人を押しのけてじぶんだけが安んじて生きながらえることを最高の目標においたところで、物語は唐突に終わりを迎える。「蛇性の婬」は人間主義の燦然たる勝利どころか、日和見主義の苦い敗北におわるのである。はたして豊雄は事件ののち、蛇塚の封印を解いて真女児に会いたいという衝動に、女たちを犠牲にして生き残った後ろめたさにとらわれなかっただろうか。彼の全身にはすでに、「毒」が回っている。
参考文献
・新編日本古典文学全集「雨月物語」
・「エロス身体論」、小浜逸郎、平凡社新書
・「水と夢 物質的想像力試論」、ガストン・バシュラール、及川馥訳
・「宗教とエロス」、ヴァルター・シューバルト、石川実/平田達治/山本実訳
・「女と蛇 表徴の江戸文学誌」、高田衛
・「上田秋成研究序説」、高田衛
・「雨月物語評釈」、鵜月洋