知るということが、私の活力源であった。
知は正しさの尺度であり強さの源である、という信仰
それがどうも、揺らいでいるような気がする
揺らぐというよりも、抜け落ちたという感がある
知ったって駄目だ!ということなのか
知りたいと思わないのか
向日精神とは知の欲求だ
少なくとも僕にとって
「好奇心」に、「必要」が代わった。
必要に追い立てられることはむなしい
必要の壁に囲まれて知ろうとしない人
それを僕はきらったけれど、自らそうなりつつあるようにおもう
知らないほうが幸いなのだろうか?
灰色の疲労と倦怠(と当てのない焦燥)のなかにあって、爽快なる理想は可能か
現実性とは、「こんなもんだろう」という妥協では断じてない、と言いたい
理想の窒息とは、私にとっての理想の窒息に他ならなく、それは、どんなものであったっていいから、私がそれを信じ、それに導かれ、それに鼓舞されて、生きる、生きさせる、そういう可能性の剥落なのである
僕等が芸術的完成の途へ向はうとする時、何か僕等の精進を妨げるものがある。偸安の念か。いや、そんなものではない。それはもつと不思議な性質のものだ。丁度山へ登る人が高く登るのに従つて、妙に雲の下にある麓が懐しくなるやうなものだ。かう云つて通じなければ――その人は遂に僕にとつて、縁無き衆生だと云ふ外はない。
と、龍之介は書くけれども、こんなものは痩せ我慢である
「偸安の念」!!
それが問題だ!!!
しかしそのなにが悪い?
人を殺さない吉良吉影は悪か?
それがまさに「大衆の原像」ではないか?
市井に生きる無名の人間とは、小さいけれど確かな幸せを求める「偸安生命」だといってよい
父も母も叔父も叔母もそうであろう
あるいはクラスメイトもそうであっただろう?
うまいものを食って肌触りのいいシャツを着て立派な家を建てたい
そういうことを考えなくてはならないのだ
全然そういうことなのだ
それが現実、それが成熟、それが善、それが幸福、だ
僕が龍之介を読む中でなんとかしたいのは、「そうではない未来」の具体的な姿をみることである