龍之介04 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。


ここなんかリンゴォのくだりと同じではないか?


「『目的』がわからない。あの男がなぜガウチョと撃ち合ってたのか。もし『敵』ならオレらを迷わせて『何をしたい』のか?」
「じゃあどうするんだ?ジャイロ・ツェペリ。あんたはもっとここらをうろつきたいのか?あと何週するつもりだ?行くんなら行って来なよ……オレはもう走り回ったりしない」


ホット・パンツも奉教人の死の「ろおれんぞ」と思う


・疑惑と奉教人の死


私は妻の手を執って引張りました。妻の肩を押して起そうとしました。が、圧にかかった梁は、虫の這い出すほども動きません。私はうろたえながら、庇の板を一枚一枚むしり取りました。取りながら、何度も妻に向って「しっかりしろ。」と喚きました。妻を? いやあるいは私自身を励ましていたのかも存じません。小夜は「苦しい。」と申しました。「どうかして下さいまし。」とも申しました。が、私に励まされるまでもなく、別人のように血相を変えて、必死に梁を擡げようと致して居りましたから、私はその時妻の両手が、爪も見えないほど血にまみれて、震えながら梁をさぐって居ったのが、今でもまざまざと苦しい記憶に残っているのでございます。
 それが長い長い間の事でございました。――その内にふと気がつきますと、どこからか濛々とした黒煙が一なだれに屋根を渡って、むっと私の顔へ吹きつけました。と思うと、その煙の向うにけたたましく何か爆はぜる音がして、金粉のような火粉がばらばらと疎に空へ舞い上りました。私は気の違ったように妻へ獅噛みつきました。そうしてもう一度無二無三に、妻の体を梁の下から引きずり出そうと致しました。が、やはり妻の下半身は一寸も動かす事は出来ません。私はまた吹きつけて来る煙を浴びて、庇に片膝つきながら、噛みつくように妻へ申しました。何を? と御尋ねになるかも存じません、いや、必ず御尋ねになりましょう。しかし私も何を申したか、とんと覚えていないのでございます。ただ私はその時妻が、血にまみれた手で私の腕をつかみながら、「あなた。」と一言申したのを覚えて居ります。私は妻の顔を見つめました。あらゆる表情を失った、眼ばかり徒に大きく見開いている、気味の悪い顔でございます。すると今度は煙ばかりか、火の粉を煽った一陣の火気が、眼も眩むほど私を襲って来ました。私はもう駄目だと思いました。妻は生きながら火に焼かれて、死ぬのだと思いました。生きながら? 私は血だらけな妻の手を握ったまま、また何か喚きました。と、妻もまた繰返して、「あなた。」と一言申しました。私はその時その「あなた。」と云う言葉の中に、無数の意味、無数の感情を感じたのでございます。生きながら? 生きながら? 私は三度何か叫びました。それは「死ね。」と云ったようにも覚えて居ります。「己も死ぬ。」と云ったようにも覚えて居ります。が、何と云ったかわからない内に、私は手当たり次第、落ちている瓦を取り上げて、続けさまに妻の頭へ打ち下しました。
 それから後の事は、先生の御察しにまかせるほかはございません。私は独り生き残りました。ほとんど町中を焼きつくした火と煙とに追われながら、小山のように路を塞いだ家々の屋根の間をくぐって、ようやく危い一命を拾ったのでございます。幸か、それともまた不幸か、私には何にもわかりませんでした。ただその夜、まだ燃えている火事の光を暗い空に望みながら、同僚の一人二人と一しょに、やはり一ひしぎにつぶされた学校の外の仮小屋で、炊き出しの握り飯を手にとった時とめどなく涙が流れた事は、未だにどうしても忘れられません。


その時翁の傍から、誰とも知らず、高らかに「御主、助け給へ」と叫ぶものがござつた。声ざまに聞き覚えもござれば、「しめおん」が頭をめぐらして、その声の主をきつと見れば、いかな事、これは紛まがひもない「ろおれんぞ」ぢや。清らかに痩せ細つた顔は、火の光に赤うかがやいて、風に乱れる黒髪も、肩に余るげに思はれたが、哀れにも美しい眉目のかたちは、一目見てそれと知られた。その「ろおれんぞ」が、乞食の姿のまま、群らがる人々の前に立つて、目もはなたず燃えさかる家を眺めて居る。と思うたのは、まことに瞬く間もない程ぢや。一しきり焔を煽つて、恐しい風が吹き渡つたと見れば、「ろおれんぞ」の姿はまつしぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁の中にはいつて居つた。「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空高く「くるす」を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に揺るる日輪の光を浴びて、「さんた・るちや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮んだと申す。
 なれどあたりに居つた奉教人衆は、「ろおれんぞ」が健気な振舞に驚きながらも、破戒の昔を忘れかねたのでもござらう。忽ち兎角の批判は風に乗つて、人どよめきの上を渡つて参つた。と申すは、「さすが親子の情あひは争はれぬものと見えた。己が身の罪を恥ぢて、このあたりへは影も見せなんだ『ろおれんぞ』が、今こそ一人子の命を救はうとて、火の中へはいつたぞよ」と、誰ともなく罵りかはしたのでござる。これには翁さへ同心と覚えて、「ろおれんぞ」の姿を眺めてからは、怪しい心の騒ぎを隠さうず為か、立ちつ居つ身を悶えて、何やら愚しい事のみを、声高わめいて居つた。なれど当の娘ばかりは、狂ほしく大地に跪ひざまづいて、両の手で顔をうづめながら、一心不乱に祈誓を凝らいて、身動きをする気色さへもござない。その空には火の粉が雨のやうに降りかかる。煙も地を掃つて、面を打つた。したが娘は黙然と頭を垂れて、身も世も忘れた祈り三昧でござる。
 とかうする程に、再び火の前に群つた人々が、一度にどつとどよめくかと見れば、髪をふり乱いた「ろおれんぞ」が、もろ手に幼子をかい抱いて、乱れとぶ焔の中から、天くだるやうに姿を現いた。なれどその時、燃え尽きた梁の一つが、俄に半ばから折れたのでござらう。凄じい音と共に、一なだれの煙焔が半空に迸しつたと思ふ間もなく、「ろおれんぞ」の姿ははたと見えずなつて、跡には唯火の柱が、珊瑚の如くそば立つたばかりでござる。


・葱
サブカルクソ野郎の動物的生活力に対する敗北


お君さんの相手は田中君と云って、無名の――まあ芸術家である。何故かと云うと田中君は、詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来ると云う才人だから、どれが本職でどれが道楽だか、鑑定の出来るものは一人もいない。従ってまた人物も、顔は役者のごとくのっぺりしていて、髪は油絵の具のごとくてらてらしていて、声はヴァイオリンのごとく優しくって、言葉は詩のごとく気が利いていて、女を口説く事は歌骨牌をとるごとく敏捷で、金を借り倒す事は薩摩琵琶をうたうごとく勇壮活溌を極めている。それが黒い鍔広の帽子をかぶって、安物らしい猟服を着用して、葡萄色のボヘミアン・ネクタイを結んで――と云えば大抵わかりそうなものだ。思うにこの田中君のごときはすでに一種のタイプなのだから、神田本郷辺のバアやカッフェ、青年会館や音楽学校の音楽会(但し一番の安い切符の席に限るが)兜屋や三会堂の展覧会などへ行くと、必ず二三人はこの連中が、傲然と俗衆を睥睨している。だからこの上明瞭な田中君の肖像が欲しければ、そう云う場所へ行って見るが好い。おれが書くのはもう真平御免だ。


・偸盗、袈裟と盛遠、邪宗門

沙金、袈裟、中御門の姫


夏目先生

東京小品

漱石山房の冬


・水死体幻想

尾生の信

蜃気楼

大導寺信輔の半生


夜半、月の光が一川の蘆と柳とに溢れた時、川の水と微風とは静に囁き交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思い憧れたせいかも知れない。ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の匂や藻の匂が音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……

僕等はこんなことを話しながら、今度は引地川の岸に沿わずに低い砂山を越えて行った。砂山は砂止めの笹垣の裾にやはり低い松を黄ばませていた。O君はそこを通る時に「どっこいしょ」と云うように腰をかがめ、砂の上の何かを拾い上げた。それは瀝青らしい黒枠の中に横文字を並べた木札だった。
「何だい、それは? Sr. H. Tsuji……Unua……Aprilo……Jaro……1906……」
「何かしら? dua……Majesta……ですか? 1926 としてありますね。」
「これは、ほれ、水葬した死骸についていたんじゃないか?」
 O君はこう云う推測を下した。
「だって死骸を水葬する時には帆布か何かに包むだけだろう?」
「だからそれへこの札をつけてさ。――ほれ、ここに釘が打ってある。これはもとは十字架の形をしていたんだな。」
 僕等はもうその時には別荘らしい篠垣や松林の間を歩いていた。木札はどうもO君の推測に近いものらしかった。僕は又何か日の光の中に感じる筈のない無気味さを感じた。
「縁起でもないものを拾ったな。」
「何、僕はマスコットにするよ。……しかし 1906 から 1926 とすると、二十位で死んだんだな。二十位と――」
「男ですかしら? 女ですかしら?」
「さあね。……しかし兎に角この人は混血児だったかも知れないね。」
 僕はK君に返事をしながら、船の中に死んで行った混血児の青年を想像した。彼は僕の想像によれば、日本人の母のある筈だった。

或朝焼けの消えかかった朝、父と彼とはいつものように百本杭へ散歩に行った。百本杭は大川の河岸でも特に釣り師の多い場所だった。しかしその朝は見渡した所、一人も釣り師は見えなかった。広い河岸には石垣の間に舟虫の動いているばかりだった。彼は父に今朝に限って釣り師の見えぬ訣を尋ねようとした。が、まだ口を開かぬうちに忽ちその答を発見した。朝焼けの揺らめいた川波には坊主頭の死骸が一人、磯臭い水草や五味のからんだ乱杭の間に漂っていた。――彼は未だにありありとこの朝の百本杭を覚えている。三十年前の本所は感じ易い信輔の心に無数の追憶的風景画を残した。けれどもこの朝の百本杭は――この一枚の風景画は同時に又本所の町々の投げた精神的陰影の全部だった。