だらだらと書くことは危険である | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

 だらだらと文章を書くことは嫌いではない。それはひとに伝え、ひとと共有することでひとのリアクションを引き出し、ただ私の中にだけ「あった」、形のない想いに、支えができる経験であって、それが面白いとおもうからだ。

 支えというのは、「現実」の中に確かな根拠をもつことである。私の苦手な哲学問答のようになってしまうが、この支えという感じを理解してもらうには次のことを考えなくてはならない。私にしか見えない、聞こえない、さわれない、感じることのできない対象は、客観的現実に存在するということができるだろうか。それはわからない。が、単に、ある、ということはできるしわたしはたぶんいつもしている。この冷やしトマトの美味しさは誰か他のひとにとっては存在しないが、まさにそれを食す私にとってはありありと切迫する現実に他ならない。冷やしトマトの美味しさの中にいる間、わたしは客観的現実なんていうものはまったく問題にしていない。満足は幸福だ。客観的現実なんていうものを問題にしないから。
 

 が、他方で、やはり、客観的現実は問題だ。わたしは私の生を、ただわたし自身によっては成り立たせることができない。それは、高度に発達した人類文明が経済活動の分業を必然化し、その外部に生を営むことを根本的に不可能化しているからだ、という意味での「不可能」である以前に、心の問題として、不可能である。わたしは、私の生を私だけによって意味づけることができない。心というものが、なにか、「意味」というものと切り離すことのできないあり方をしているからだ。それを以前わたしは、人間の根本条件としての、ジンカン性であると考えた。人という字は~という奴である。わたしの真の姿は、あなたの眼に映った像のありようである。あなたの眼を迂回することなく、わたしは私の存在を純粋に経験できない。したがって、私のヒューマニズムとは、意味を疑わないことにあるといえる。ちなみに、超人間的な存在はまさにその「意味」を攻撃することを条件にしているだろう。超人化の(超)プロジェクトは、意味という覆い・隔て・異物・他者、を排撃することが、目的になる。

 現実のうちに根をもつことであるから、コミュニケーションは楽しい。話すことも書くことも、私にとっては、まずは変わらない。ひとのリアクション、肯定でも否定でもよいが、それを引き出すこと、関係すること、それは喜ばしいことである。


 だから、書かないこと、と、だらだらと書くこと、とでは、書くことの方に天秤が傾くようにおもう。何もないところには何も生まれない。わたしは質量保存の法則というものを「信じる」し、ビッグバンを「信じない」(だからたぶん無自覚な反科学である)。何かがある、あることは運動(振動)であり、エネルギーである。エネルギーが事物の発生を可能にする。生産は喜びであり最高善である。そういう神学なのだ。
 

 存在は運動でありエネルギーである。そしてエネルギーが存在を生む。それは循環していてどこかで絶つことができない。だから生まれるし、だから死ぬ。そういう風にできている。あなたは宇宙の発生に先行していない。だから、あなたが、あなただけが恣意的に運動やエネルギーのあり方を決めることはできない。それは能力的に不可能だし、存在=運動=エネルギー=神の冒涜に他ならない。だから、それは論理的に正しくもないし倫理的に義しくもない。さらにいえば、美的にも、醜悪なのである。これらの立場のちがいは埋めることができない。両者は調停不能なのであって、その対立は宗教戦争のようなものだ。この教義をめぐるときに、いつも私の暴力性と生産性とが最大化するように思う。書かない人たちをわたしは軽侮し、人とも思わない。だから私のヒューマニズムはあなたを殺す。しかしどうやって「批判」が可能だろう?意味よりも早く到来するのに。

 生産=エネルギー=運動=存在が問題だ。消費はなんら問題ではない。わたしはみずからの労働力の消費条件をではなく、生産=存在条件を求めなければならない。私の周りにはほとんど消費者しかいない。消費者の消費者による消費者のための消費から抜け出ることを考えなくては。

  それはまずは、こうして、「だらだらと書くこと」だ。その販路、消費条件を整えても仕方があるまい。なんのためでもない駄文。発表する当てのない原稿、配送される当てのない手紙。それが「力」であると思う。だから「危険」なのだ。