決定論
運命があらかじめ決定されている
努力はむなしい
運
偶然
構成要件に該当し違法かつ有責な行為
認識
判断
行為
罪
責任
倫理
法
規範
禁止令に背く
因果
選択
原因
偶然
管理主義
システムへの過度の期待
安心安全
固有性と特殊性
条件付きの承認
無条件の承認
贈与
愛
超越性
わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ
「期待」
期待に応えようとするふるまい
行動の計画性
再現性
入力条件と結果
実験精神
予算
振り返り、反省
責任
セウォル号事件
・「暗躍す」は、ぼくの個人的な問題を社会的な問題に接続することが目的かな。
ぼくの個人的な問題については人はほとんどきょうみがない
リゾットの検索でここにきてくれた人をぼくはひきとめることができるか?
のー。
人それぞれ・検索エンジン的好奇心
でもそれは結局近代の効果でしかない。
じゃあどうするのか
「あなたが知らないことはそれがつまらないものであることを意味しない」
まだそれを読みたいと思わない本を探す為に本屋にいくことがある
「君は君が求めたものとは違うものを手に入れるだろう」
フロイトのトラウマ概念
ラピュタでパズーは求めたもの=父の不名誉を雪ぐことではなく、
ラピュタの停止を最終的に達成する
コウモリ的(ゾンビ的)・批評はあるか?
強度と洗練
なぜ仮構的なゼロ地点が必要かといえば、それは成熟のためなんです。
「自由には責任が伴わなければならない」と言いますね。
では不自由に甘んじるならば責任は免除されるのか。
これは「自由ならば責任が伴う」という命題の裏、「自由でないならば責任は伴わない」に当たりますが、裏は必ずしも真ならず、ここでも誤りだと思います。
ぼくは時代がどんどん貧しくなってきていると考えているのですが、それは大人がいないからだと思います。
「不自由で構わないから責任は取らない」という立場の人が一定以上増えるとその社会集団は崩壊します。
それを回避する為に責任をとるには、選択の為の立脚点としてのゼロ地点が必要です。
つまり「責任には自由が伴わなければならない」んじゃないかと思います。
逆は正しいようですね。
そしてぼくの場合、その自由と責任のためのゼロ地点に「疚しさ」が代入されます。
疚しさというのは換言すれば、「自己自身に手放しの自由を与えることを認めがたいという感触」のことです。
だからぼくの場合、議論はまっすぐ自己矛盾かさもなくば死かという隘路に通じているのです。
それはぼくの相対的な性質とは無関係です。
ぼくは本来、哲学だとか生死だとか時代だとか成熟なんて大きなテーマとは最も縁遠い人間です。
こたつにもぐりこんでぬくぬくとみかんをほおばっているような種類の人間なのです。
しかしにもかかわらず、疚しさを抱え込んでしまうと道はここに通じている。
だから後悔ということで言うなら―もたりけさんへの答えにつながりましたが―今これが後悔だと思います。
そして後悔を如何に解消するか、どうやったらこの隘路(行き止まり、袋小路、八方ふさがり)を抜け出すことができるのかと問うたとき、それはコウモリなんだというのがぼくの答えです。
要約すると、とにかく抜け出そう、どうにか状況を変えてやろうとするといよいよ深みにはまってしまう。
それは己の能力を過信し事態が回復可能だと思いなすこと、「回復不能な現実」という見たくないものを見ないことに由来します。
だから袋小路に出口があるとすればそれは出口なしという一点だけなのです。
…ということになります。
だから先の記事は「前進」を「引き返すこと」と置き換えてもそのまま読めると思います。
別にどちらでもいいんですけれど概ね前進がよしとされているようなのでとりあえず前進をプラス、後退をマイナスと置いておきました。
というわけなので、ちなさん、これはすごいわかりにくいんですけど、たぶんむしろ迂回的なポジティブネスが貫かれているんじゃないかなと思います。
*
価値論ということでいうと、イソップの「卑怯なコウモリ」から、鳥と獣は正しく善く美しく、コウモリが愚かで悪しく醜いのだという教訓をなにも疑うことなく引き出してしまうことがちょっと無垢すぎるかなという疑問が念頭にあったのです。
これってそのまま冷戦体制の戯画として成立していると思います。
いまだにコウモリ即劣位(悪しく醜く孤独で愚かしいなどなど)と、たぶんみなさん考えていると思いますが、すると冷戦的メンタリティは亡霊のように今も日本を跋扈しているのかもしれません。
そうか…そう思うと結構根深いな。
出口は、どんなものにも必ずなければなりません。
入り口があって出口がある。大抵のものはそんな風にできている。郵便ポスト、電気掃除機、動物園、ソースさし。もちろんそうでないものもある。例えば鼠捕り。
アパートの流し台の下に鼠捕りを仕掛けたことがある。餌にはペパーミント・ガムを使った。部屋中を捜しまわった挙句、食べ物と呼び得るものはそれ以外に見当たらなかったからだ。冬もののコートのポケットから映画館の半券と一緒にそれを見つけた。
三日めの朝に、小さな鼠がその罠にかかっていた。ロンドンの免税店に積み上げられたカシミヤのセーターのような色をしたまだ若い鼠だった。人間にすれば十五、六といったところだろう。切ない歳だ。ガムの切れ端が足下に転がっていた。
つかまえてはみたものの、どうしたものか僕にはわからなかった。後ろ足を針金にはさんだまま、鼠は四日めの朝に死んでいた。彼の姿は僕にひとつの教訓を残してくれた。
物事には必ず入り口と出口がなくてはならない。そういうことだ。
(村上春樹、『1973年のピンボール』、講談社文庫、2004年第1刷、14-15頁)
ぼくはたぶんしばしば自滅的にふるまっているように見えると思うんですけど、でもつねに回復可能性ということ、そして議論が常識的な、穏当な思考に通ずるはずだということを強く信じています。
これをポジティブネス、オプティミズムと言わずして、一体なんでしょうか。
あるいは楽観的すぎるかもしれない。でもそれほど馬鹿じゃない、てね。
*
ぼくが次のヒントになるんじゃないかと考えているのは、「他人の趣味は否定できるか」という問いです。
この趣味とは真・善・美の内、善を抜いた概念です。
ですから趣味が否定されることがあるとしたらたぶん善の立場から、ということになります。
その議論は特殊性⇔普遍性の軸ではなく、具体性⇔共通性の軸に基づいていなければなりません。
特殊性と普遍性ではなく、
具体性と共通性によって、と、僕は呻く。
(『門』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10681405436.html )
むつかしい問いです。
人生から意味を問われていると考えることは、意味の決定をなんらかの超越性にゆだねる身振りをはらんでいる。そして、空虚さを巡る問いのほとんどは、この種の超越性に決定権を移譲するだけで半ば解決するのだ
空虚さと承認
承認の根拠を全面的に他者に依存すれば、そこにはもはや客観的な評価軸が失われる
客観的な基準からキャラの承認へ
複数性と流動性に開かれたキャラに依拠した承認は場合によっては空虚さ以上の苦痛をもたらす
問題は無意味さではなく不本意な意味(=キャラ)である
名前に意味がない
意味や価値を可能にする特権的な言葉だからではないか
『承認をめぐる病』
自分の言葉に責任を持つというのはそういうことではないかと思うのだ。
自分が書いたものと心中できないならはじめから黙っていた方がいい。
黙ってじっとしていれば大抵のことはやり過ごせるだろう。
人生もまた例外ではない。
勇気が徳であることは疑わないが臆病を悪とするには抵抗がある。
でも、ときに臆してしまうことは仕方ないんじゃないかという気がする。
そもそも二項対立に基づく認識は人間にとって普遍的な思考様式であるけれども(意識の成立は「不在」に触発される「在/不在」の感覚に求められる)、①二項対立を実体視し(あるいは現実を二項対立によって相対化し)、②理念を達成することが可能だと見なす態度は他には見られない特徴だろう。
したがって、近代性は、世俗的合理主義(変革可能性を信じること)と目的的成長主義(変革への意思)の二性質によると考える。
ところで、「劣った現実」に「理念性」を、「優れた理念」に「現実性」を代入する思考も近代である。
あるいは「劣った現実」に「近代」を、「優れた理念」に「脱近代」を代入する思考も近代だ。
よくあるダメな作文は「感動しました・反省しました・これからは頑張りたいです」というチープな展開をたどるけれど、これは近代のカリカチュアとして機能しているように思う。
「優れた理念」に感動し、「劣った現実」を反省し、「まだ実現されていない理念」へと努力する。
ほらね。
さらに、近代は理念=イデオロギーか現実=フェティシズムかという二項分節のことである。
イデオロギーとは脱魔術化された宗教のことだ。
フェティシズムはニヒリスティックな欲求肯定主義のことだ。
イデオロギー・対・フェティシズム
枢軸国・対・連合国
全体主義・対・個人主義
共産主義・対・資本主義
社会党・対・自民党
イスラム・対・アメリカ?
そして近代の難点は「理念」か「現実」かという二項分節そのものである。
ス・カ・ス・カのモラルか、遊びまわる為の金か。
空転する政治や学問か、「All you need is money」か。
戯れのニューアカか、「真=学歴・善=財貨・美=整形」の三位一体か。
ピーマンかサルか…。
ぼくは諸君のいずれにも与しない第三の「人間」である。
文化が生成する条件
生活空間??
異質なものが出会う経験
センツマアニ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000364/files/2070_23052.html
出典は『今昔物語』巻十六「貧女清水観音値盗人夫語第三十三」である。目先の変わった物語であるが、原作の筋をほぼそのまま踏襲している。芥川は、物質的な幸福だけを真の幸福と考える若侍と、精神の内部における幸福を最大視する翁と、この相対する二つの型の人間の会話を最後において、種類の異なった幸福感を示し、原作に多少の綾を付与した。
人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね。」