仕事場
目のあらい簾が、入口にぶらさげてあるので、往来の容子は仕事場にいても、よく見えた。
往来
清水へ通う往来は、さっきから、人通りが絶えない。
金鼓をかけた法師が通る。
金鼓?
仏教の楽器の一。銅製、平たい円形で中空。仏堂で架に取り付けて打ち鳴らす。また、僧侶が布教のとき首にかける鉦鼓(しょうこ)のこと。ひらがね。わにぐち。
鉦鼓
1 《「しょうご」とも》雅楽に用いる打楽器の一。青銅または黄銅製の皿形のもので、釣り枠につるして凹面を2本の桴(ばち)で打つ。大(おお)鉦鼓・釣(つり)鉦鼓・荷(にない)鉦鼓の3種があり、普通には釣鉦鼓をさす。
2 仏家で、勤行(ごんぎょう)のときなどにたたく円形青銅製のかね。
3 軍中で合図などに用いた、たたきがねと太鼓。
法師?
坊さん
壺装束をした女が通る。
壺装束?
平安時代から鎌倉時代にかけて、上・中流の女子が徒歩で外出または旅行する際の服装。小袖・単(ひとえ)・袿(うちき)などを着重ね、歩行しやすいように裾(すそ)を引き上げて身丈(みたけ)に合わせ、ふところを腰帯で結んで、余りを腰に折り下げたもの。市女笠(いちめがさ)をかぶることもある。腰の部分が広く、裾がつぼんでいる形からいう。つぼしょうぞく。
→上中流の娘ということだ
その後からは、めずらしく、黄牛に曳ひかせた網代車が通った。
黄牛?
《「あめうじ」とも》飴色(あめいろ)の毛色の牛。古くはりっぱな牛として貴ばれた。
網代車?
牛車(ぎっしゃ)の一。車の屋形に竹または檜(ひのき)の網代を張ったもの。四位・五位・少将・侍従は常用とし、大臣・納言・大将は略儀や遠出用とする。
それが皆、疎な蒲の簾の目を、右からも左からも、来たかと思うと、通りぬけてしまう。
蒲の簾?
その中で変らないのは、午後の日が暖かに春を炙っている、狭い往来の土の色ばかりである。
その人の往来を、仕事場の中から、何と云う事もなく眺めていた、一人の青侍が、この時、ふと思いついたように、主の陶器師へ声をかけた。
青侍?
陶器師?
「不相変、観音様へ参詣する人が多いようだね。」
「左様でございます。」
観音様?
陶器師は、仕事に気をとられていたせいか、少し迷惑そうに、こう答えた。
が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんな所のある老人で、顔つきにも容子にも、悪気らしいものは、微塵もない。
着ているのは、麻の帷子であろう。
それに萎なえた揉烏帽子もみえぼしをかけたのが、この頃評判の高い鳥羽僧正の絵巻の中の人物を見るようである。
「私も一つ、日参でもして見ようか。こう、うだつが上らなくちゃ、やりきれない。」
「御冗談で。」
日参
うだつがあがらない
「なに、これで善い運が授かるとなれば、私だって、信心をするよ。日参をしたって、参籠をしたって、そうとすれば、安いものだからね。つまり、神仏を相手に、一商売をするようなものさ。」
信心
参籠
青侍は、年相応な上調子なもの言いをして、下唇を舐めながら、きょろきょろ、仕事場の中を見廻した。
上調子なもの言いとはどんなもの言いか
仕事場は…
――竹藪を後ろにして建てた、藁葺のあばら家だから、中は鼻がつかえるほど狭い。
が、簾の外の往来が、目まぐるしく動くのに引換えて、ここでは、甕でも瓶子でも、皆赭あかちゃけた土器かわらけの肌をのどかな春風に吹かせながら、百年も昔からそうしていたように、ひっそりかんと静まっている。
瓶子?
カワラケ?カワラケ投げってある
どうやらこの家の棟ばかりは、燕さえも巣を食わないらしい。……
巣を食う
棟とはどこか?
翁が返事をしないので、青侍はまた語を継いだ。
翁とは陶器師でいいか
「お爺さんなんぞも、この年までには、随分いろんな事を見たり聞いたりしたろうね。どうだい。観音様は、ほんとうに運を授けて下さるものかね。」
お爺さん
「左様でございます。昔は折々、そんな事もあったように聞いて居りますが。」
そんな事とは観音様が運を授けて下さるということか
「どんな事があったね。」
「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、貴方がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」
あなた方?読者か?若者一般か?
「可哀そうに、これでも少しは信心気のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日にも――」
「信心気でございますかな。商売気でございますかな。」
現世利益を求めて神頼みというのは「神の使い方」として妥当か?
翁は、眦に皺をよせて笑った。捏ねていた土が、壺の形になったので、やっと気が楽になったと云う調子である。
話しながら作業していたのか?
「神仏の御考えなどと申すものは、貴方がたくらいのお年では、中々わからないものでございますよ。」
神仏は何か考えるのか?人格はあるのか?
「それはわからなかろうさ。わからないから、お爺さんに聞くんだあね。」
「いやさ、神仏が運をお授けになる、ならないと云う事じゃございません。そのお授けになる運の善し悪しと云う事が。」
ということが問題なのだ、ということなのか?
お授けになるならないということではないというのは、お授けになるのはお授けになるのであって、そこが問題なのではないということか?
「だって、授けて貰えばわかるじゃないか。善い運だとか、悪い運だとか。」
「それが、どうも貴方がたには、ちとおわかりになり兼ねましょうて。」
運とはなんだろうか?
「私には運の善し悪しより、そう云う理窟の方がわからなそうだね。」
たしかによくわからないね
日が傾き出したのであろう。
時はいつか?
春、夕方
さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。
日が長くなってきた春
その長い影をひきながら、頭に桶をのせた物売りの女が二人、簾の目を横に、通りすぎる。
桶の中身は?水か?
一人は手に宿への土産らしい桜の枝を持っていた。
宿に土産をもっていくものなのか?そんな文化はいまもあるのだろうか?
「今、西の市いちで、績麻うみその※(「廛+おおざと」、第3水準1-92-84)みせを出している女なぞもそうでございますが。」
ウミソ?
女なぞもそう、「そう」とは観音様から運を授かったということか?
「だから、私はさっきから、お爺さんの話を聞きたがっているじゃないか。」
二人は、暫くの間、黙った。
青侍は、爪で頤あごのひげを抜きながら、ぼんやり往来を眺めている。
髭剃りはしないのか?ずぼらだなあ
貝殻のように白く光るのは、大方さっきの桜の花がこぼれたのであろう。
「話さないかね。お爺さん。」
やがて、眠そうな声で、青侍が云った。
「では、御免を蒙って、一つ御話し申しましょうか。また、いつもの昔話でございますが。」
いつもの昔話
青侍と陶器師はいつも昔話をしているのだろうか?
それとも、こういう陶器師がいつもしそうな、老人は一般に昔話ばかりするものだという意味でいっているのか?
こう前置きをして、陶器師の翁は、徐ろに話し出した。
オモムロ
語り手は翁
日の長い短いも知らない人でなくては、話せないような、悠長な口ぶりで話し出したのである。
もう夕方である。そんな調子では終わりにたどり着かないだろうというような悠長さ。
「もうかれこれ三四十年前になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この清水の観音様へ、願をかけた事がございました。
いつか?
どうぞ一生安楽に暮せますようにと申しましてな。
何しろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに死別しにわかれた後で、それこそ日々の暮しにも差支えるような身の上でございましたから、そう云う願をかけたのも、満更無理はございません。
天涯孤独の身の上
「死んだおふくろと申すのは、もと白朱社はくしゅしゃの巫子で、一しきりは大そう流行ったものでございますが、狐を使うと云う噂を立てられてからは、めっきり人も来なくなってしまったようでございます。
ハクシュシャ?
狐を使う?
だめなのか?
これがまた、白あばたの、年に似合わず水々しい、大がらな婆さんでございましてな、何さま、あの容子ようすじゃ、狐どころか男でも……」
男でもなんなのか?
「おふくろの話よりは、その娘の話の方を伺いたいね。」
「いや、これは御挨拶で。――そのおふくろが死んだので、後は娘一人の痩せ腕でございますから、いくらかせいでも、暮しの立てられようがございませぬ。
当時は女の働けるところはどれくらいあったのだろう?
そこで、あの容貌のよい、利発者の娘が、お籠もりをするにも、襤褸つづれ故に、あたりへ気がひけると云う始末でございました。」
ツヅレ
オコモリ
利発者
「へえ。そんなに好い女だったかい。」
「左様でございます。気だてと云い、顔と云い、手前の欲目では、まずどこへ出しても、恥しくないと思いましたがな。」
気立て
「惜しい事に、昔さね。」
青侍は、色のさめた藍の水干すいかんの袖口を、ちょいとひっぱりながら、こんな事を云う。
スイカン
色のさめた、色褪せたということか
翁は、笑声を鼻から抜いて、またゆっくり話しつづけた。
笑い声を鼻から抜く?
後ろの竹籔では、頻りに鶯が啼いている。
「それが、三七日さんしちにちの間、お籠りをして、今日が満願と云う夜よに、ふと夢を見ました。
サンシチニチ?
満願?
何でも、同じ御堂に詣いっていた連中の中に、背むしの坊主ぼうずが一人いて、そいつが何か陀羅尼のようなものを、くどくど誦していたそうでございます。
陀羅尼
セムシ
大方それが、気になったせいでございましょう。
気になる
うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。
とんと、縁の下で蚯蚓でも鳴いているような心もちで
ミミズがなく?
――すると、その声が、いつの間にやら人間の語になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』と、こう聞えると申すのでございますな。
聞こえると申す、なぜ翁は知っているのだろう?
「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり陀羅尼三昧でございます。
が、何と云っているのだか、いくら耳を澄ましても、わかりませぬ。
その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、常夜燈のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。
常夜灯?
日頃拝みなれた、端厳微妙たんごんみみょうの御顔でございますが、それを見ると、不思議にもまた耳もとで、『その男の云う事を聞くがよい。』と、誰だか云うような気がしたそうでございます。
たんごんみみょう
そこで、娘はそれを観音様の御告だと、一図に思いこんでしまいましたげな。」
げな
「はてね。」
はてね
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の定後ろから、男が一人抱きつきました。
言い寄る?
丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生憎の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶おの事わかりませぬ。
ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭にさわりました。
犯人には口髭がある
いやはや、とんだ時が、満願の夜に当ったものでございます。
「その上、相手は、名を訊きかれても、名を申しませぬ。
所を訊かれても、所を申しませぬ。
ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。
北はどちらか
声は低いのか高いのか
泣こうにも、喚わめこうにも、まるで人通りのない時分なのだから、仕方がございませぬ。」
夜が更けてから外を出歩くのは物騒ではないか?
「ははあ、それから。」
「それから、とうとう八坂寺の塔の中へ、つれこまれて、その晩はそこですごしたそうでございます。――いや、その辺へんの事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい。」八坂寺?
翁は、また眦めじりに皺をよせて、笑った。
往来の影は、いよいよ長くなったらしい。
まだ日は暮れていない
吹くともなく渡る風のせいであろう、そこここに散っている桜の花も、いつの間にかこっちへ吹きよせられて、今では、雨落ちの石の間に、点々と白い色をこぼしている。
雨落ちの石
「冗談云っちゃいけない。」
青侍は、思い出したように、頤あごのひげを抜き抜き、こう云った。
「それで、もうおしまいかい。」
「それだけなら、何もわざわざお話し申すがものはございませぬ。」翁は、やはり壺をいじりながら、「夜があけると、その男が、こうなるのも大方宿世の縁だろうから、とてもの事に夫婦になってくれと申したそうでございます。」
宿世?
夫婦制度
「成程。」
「夢の御告げでもないならともかく、娘は、観音様のお思召し通りになるのだと思ったものでございますから、とうとう首かぶりを竪たてにふりました。
さて形ばかりの盃事をすませると、まず、当座の用にと云って、塔の奥から出して来てくれたのが綾を十疋に絹を十疋でございます。
盃事、風立ちぬで観た
綾?
十疋という単位
塔の奥から?
計画性を感じる
――この真似ばかりは、いくら貴方にもちとむずかしいかも存じませんな。」
青侍は、にやにや笑うばかりで、返事をしない。鶯も、もう啼かなくなった。
「やがて、男は、日の暮れに帰ると云って、娘一人を留守居に、慌ただしくどこかへ出て参りました。
帰る?どこに?
留守居?
あわただしく?
その後の淋しさは、また一倍でございます。
寂しい?
いくら利発者でも、こうなると、さすがに心細くなるのでございましょう。
そこで、心晴らしに、何気なく塔の奥へ行って見ると、どうでございましょう。
塔の奥
綾や絹は愚かな事、珠玉とか砂金とか云う金目の物が、皮匣かわごに幾つともなく、並べてあると云うじゃございませぬか。
珠玉?砂金?
皮匣?
これにはああ云う気丈な娘でも、思わず肚胸をついたそうでございます。
肚胸?をつく?
「物にもよりますが、こんな財物たからを持っているからは、もう疑いはございませぬ。引剥ひはぎでなければ、物盗ものとりでございます。
追剥と泥棒?
――そう思うと、今まではただ、さびしいだけだったのが、急に、怖いのも手伝って、何だか片時もこうしては、いられないような気になりました。
何さま、悪く放免の手にでもかかろうものなら、どんな目に遭うかも知れませぬ。
放免?警察?
「そこで、逃げ場をさがす気で、急いで戸口の方へ引返そうと致しますと、誰だか、皮匣かわごの後ろから、しわがれた声で呼びとめました。
何しろ、人はいないとばかり思っていた所でございますから、驚いたの驚かないのじゃございませぬ。
驚いたのである
見ると、人間とも海鼠なまこともつかないようなものが、砂金の袋を積んだ中に、円くなって、坐って居ります。
ナマコ??
――これが目くされの、皺しわだらけの、腰のまがった、背の低い、六十ばかりの尼法師あまほうしでございました。
目くされ?
尼さん
しかも娘の思惑を知ってか知らないでか、膝で前へのり出しながら、見かけによらない猫撫声で、初対面の挨拶をするのでございます。
猫なで声
「こっちは、それ所の騒ぎではないのでございますが、何しろ逃げようと云う巧みをけどられなどしては大変だと思ったので、しぶしぶ皮匣かわごの上に肘をつきながら心にもない世間話をはじめました。
どうも話の容子では、この婆さんが、今まであの男の炊女みずしか何かつとめていたらしいのでございます。
みずし?
が、男の商売の事になると、妙に一口も話しませぬ。
それさえ、娘の方では、気になるのに、その尼がまた、少し耳が遠いと来ているものでございますから、一つ話を何度となく、云い直したり聞き直したりするので、こっちはもう泣き出したいほど、気がじれます。――
耳が遠い
「そんな事が、かれこれ午までつづいたでございましょう。
すると、やれ清水の桜が咲いたの、やれ五条の橋普請が出来たのと云っている中に、幸い、年の加減か、この婆さんが、そろそろ居睡をはじめました。
橋普請?
一つは娘の返答が、はかばかしくなかったせいもあるのでございましょう。
はかばかしい
そこで、娘は、折を計って、相手の寝息を窺いながら、そっと入口まで這って行って、戸を細目にあけて見ました。外にも、いい案配に、人のけはいはございませぬ。――
「ここでそのまま、逃げ出してしまえば、何事もなかったのでございますが、ふと今朝貰った綾と絹との事を思い出したので、それを取りに、またそっと皮匣かわごの所まで帰って参りました。
欲が出る
すると、どうした拍子か、砂金の袋にけつまずいて、思わず手が婆さんの膝にさわったから、たまりませぬ。
尼の奴め驚いて眼をさますと、暫くはただ、あっけにとられて、いたようでございますが、急に気ちがいのようになって、娘の足にかじりつきました。
足にかじりつく
そうして、半分泣き声で、早口に何かしゃべり立てます。
切れ切れに、語が耳へはいる所では、万一娘に逃げられたら、自分がどんなひどい目に遇うかも知れないと、こう云っているらしいのでございますな。
保身が問題
が、こっちもここにいては命にかかわると云う時でございますから、元よりそんな事に耳をかす訳がございませぬ。
そこで、とうとう、女同志のつかみ合がはじまりました。
「打つ。蹴る。砂金の袋をなげつける。――梁に巣を食った鼠も、落ちそうな騒ぎでございます。
それに、こうなると、死物狂いだけに、婆さんの力も、莫迦には出来ませぬ。
が、そこは年のちがいでございましょう。間もなく、娘が、綾と絹とを小脇にかかえて、息を切らしながら、塔の戸口をこっそり、忍び出た時には、尼はもう、口もきかないようになって居りました。
これは、後で聞いたのでございますが、死骸は、鼻から血を少し出して、頭から砂金を浴びせられたまま、薄暗い隅の方に、仰向けになって、臥ていたそうでございます。
誰に聞いたのか
「こっちは八坂寺を出ると、町家の多い所は、さすがに気がさしたと見えて、五条京極辺の知人の家をたずねました。
町家
気がさす
京極
この知人と云うのも、その日暮しの貧乏人なのでございますが、絹の一疋もやったからでございましょう、湯を沸かすやら、粥を煮るやら、いろいろ経営してくれたそうでございます。
絹を一疋やった
経営
そこで、娘も漸く、ほっと一息つく事が出来ました。」
「私も、やっと安心したよ。」
青侍は、帯にはさんでいた扇をぬいて、簾の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。
まだ沈んでいない
その夕日の中を、今しがた白丁はくちょうが五六人、騒々しく笑い興じながら、通りすぎたが、影はまだ往来に残っている。……
白丁?
「じゃそれでいよいよけりがついたと云う訳だね。」
「所が」翁は大仰に首を振って、「その知人の家に居りますと、急に往来の人通りがはげしくなって、あれを見い、あれを見いと、罵り合う声が聞えます。
何しろ、後暗い体ですから、娘はまた、胸を痛めました。
あの物盗が仕返ししにでも来たものか、さもなければ、検非違使の追手がかかりでもしたものか、――そう思うともう、おちおち、粥を啜っても居られませぬ。」
「成程。」
「そこで、戸の隙、そっと外を覗いて見ると、見物の男女の中を、放免が五六人、それに看督長かどのおさが一人ついて、物々しげに通りました。
かどのおさ
それからその連中にかこまれて、縄にかかった男が一人、所々裂けた水干を着て烏帽子もかぶらず、曳かれて参ります。
どうも物盗りを捕えて、これからその住家へ、実録じつろくをしに行く所らしいのでございますな。
現場検証?
「しかも、その物盗りと云うのが、昨夜、五条の坂で云いよった、あの男だそうじゃございませぬか。
娘はそれを見ると、何故か、涙がこみ上げて来たそうでございます。
なぜだろう
これは、当人が、手前に話しました
娘と翁は知り合い
――何も、その男に惚れていたの、どうしたのと云う訳じゃない。が、その縄目をうけた姿を見たら、急に自分で、自分がいじらしくなって、思わず泣いてしまったと、まあこう云うのでございますがな。
いじらしい
まことにその話を聞いた時には、手前もつくづくそう思いましたよ――」
「何とね。」
「観音様へ願をかけるのも考え物だとな。」
「だが、お爺さん。その女は、それから、どうにかやって行けるようになったのだろう。」
「どうにか所か、今では何不自由ない身の上になって居ります。その綾や絹を売ったのを本に致しましてな。観音様も、これだけは、御約束をおちがえになりません。」
「それなら、そのくらいな目に遇っても、結構じゃないか。」
外の日の光は、いつの間にか、黄いろく夕づいた。その中を、風だった竹籔の音が、かすかながらそこここから聞えて来る。往来の人通りも、暫くはとだえたらしい。
風だつ
「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね。」
意思を欠いている、行き掛かり上なら仕方がない?
青侍は、扇を帯へさしながら、立上った。翁も、もう提の水で、泥にまみれた手を洗っている
――二人とも、どうやら、暮れてゆく春の日と、相手の心もちとに、物足りない何ものかを、感じてでもいるような容子である。
物足りない何ものか
それは何か、なぜか
同じ話を聞いて結論が違うから
ぜひ願掛けをすべき運を授けてもらうべし?
「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」
「御冗談で。」
「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう。」
「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな。」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、授けて頂くがね。」
二つ返事
「じゃ観音様を、御信心なさいまし。」
「そうそう、明日から私も、お籠こもりでもしようよ。」